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日佐分屋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日佐(曰佐)分屋
各種表記
ハングル 왈좌분옥
発音: ワルジャブノク
日本語読み: おさふむおく
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日佐分屋または曰佐分屋[1][2](おさふむおく、生没年不詳)は、百済官吏[3]日本人であるが、百済王権に仕えた倭系百済官僚[4]官位は「施徳[4]

概要

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日佐氏(曰佐氏)は、『新撰姓氏録』によると、漢高祖の後裔[5][6]。日佐氏(曰佐氏)は訳語氏とも記述されることから、訳語としての職掌に基づいて王権から日佐(曰佐)というカバネを授けられたとみられ、日佐氏(曰佐氏)の多くは中国系渡来人とみられる[7]

544年2月に「施徳馬武や「施徳斯那奴次酒と共に、伽耶連合の再建と百済と倭国との間の外交懸念に関する百済聖明王の意思を伝達した百済使者高分屋と日佐(曰佐)分屋とを同一人物とする指摘がある[8]

史料

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百濟遣中部木州施徳文次。前部施徳曰佐分屋等於筑紫。諮内臣佐伯連等曰。徳率次酒。杆率塞敦等以去年閏月四日到來云。臣等〈臣等者。謂内臣也。〉以今年正月到。如此噵而未審。來不也。又軍數幾何。願聞若干預治營壁。 — 日本書紀、欽明天皇十五年正月丙申

554年、百済は木刕文次、日佐(曰佐)分屋らを筑紫国に遣わして、「今年の役は以前より危険でありますので、どうか軍の派遣は正月に間に合うようにお願いします」と内臣佐伯連らに援軍を要請した[3]。内臣らは勅を奉じて、「すぐに援軍の数一千・一百疋・船四十隻を遣わす」と返答した[3]

脚注

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  1. ^ 古今要覧稿卷第二十二 姓氏部』國書刋行會、1905年、336頁https://books.google.com/books?id=ZiBDAAAAIAAJ&pg=PP434&lpg=PP434&dq=%22%E6%97%A5%E4%BD%90%E5%88%86%E5%B1%8B%22&source=bl&ots=iULE1XFxAb&sig=ACfU3U2RXixpbZQY8ICyOb8ha8b-J8g_tg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjgsIi647P_AhXiAzQIHaw-A0s4ChDoAXoECAcQAw#v=onepage&q=%22%E6%97%A5%E4%BD%90%E5%88%86%E5%B1%8B%22&f=false 
  2. ^ 百濟의 구원 요청”. 일본육국사 한국관계기사 > 日本書紀 > 卷第十九 天國排開廣庭天皇 欽明天皇 > 百濟의 구원 요청. 한국사데이터베이스. 2023年6月8日閲覧。
  3. ^ a b c “목례문차(木刕文次)”. 韓国民族文化大百科事典. オリジナルの2022年10月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221020233635/http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0018621 
  4. ^ a b 전덕재 (2017年7月). “한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할” (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學東洋學硏究院): p. 123. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220423195439/https://cms.dankook.ac.kr/web/-oriental/-23?p_p_id=Bbs_WAR_bbsportlet&p_p_lifecycle=2&p_p_state=normal&p_p_mode=view&p_p_cacheability=cacheLevelPage&p_p_col_id=column-2&p_p_col_count=1&_Bbs_WAR_bbsportlet_extFileId=99960 
  5. ^ 栗田寛『新撰姓氏録考証 下』吉川弘文館、1900年、621頁。 
  6. ^ 飯田武郷『日本書紀通釋』飯田永夫〈第五〉、1903年、843頁。 
  7. ^ 遠山美都男『日本古代国家における民族と言語』学習院大学〈学習院大学文学部研究年報 (38)〉、1991年。 
  8. ^ 松岡静雄 編『日本古語大辞典』刀江書院、1929年、142頁。