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日下部光隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 日下部 光隆 
Mitsutaka KUSAKABE
基本情報
名前 日下部 光隆
生年月日 (1968-11-10) 1968年11月10日(55歳)
身長 173 cm (5 ft 8 in)
体重 75 kg (165 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県
経歴
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日下部 光隆(くさかべ みつたか、1968年11月10日 - )は神奈川県出身のプロゴルファー

来歴

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1988年神奈川県アマ、1989年1990年に朝日杯全日本学生連覇、1990年東京アマなど多数のアマチュアタイトルを獲得[1] [2]

1991年にプロテストに合格し、同年のマルマンオープンでプロデビュー[1]すると、ショートゲームの達人と称された技術を遺憾なく発揮[2]

1995年ペプシ宇部興産では初日、2日目共に70で回って4アンダー6位タイのグループに着けると、3日目には最終組から一つ前の組でスタートし、 ブラント・ジョーブ&ジャック・オキーフ(アメリカ)と同組で積極的に攻めていく[3]。1番では2オンに失敗するも2.5mにアプローチを寄せてパーを決め、続く2番ではバーディを奪う[3]。4番ではロングホールの2オンを狙ったが、ボールはグリーン右手前のバンカーに入ってしまった[4]。ピンまでおよそ20ヤードあったが、強風の中で冷静にボールの落し所を測り、サンドウエッジをボールの3cm後ろに叩きつけた[4]。風で砂塵が舞い上った中から白球が伸び上り、グリーンに落ちたボールは糸で引っ張られるようにカップに向って転がり、快心のチップインイーグルとなった[4]。この後も4バーディ、1ボギーで[4]一気に66をマークして[5]、2位に3打差をつけて[4]単独首位[5]に立ったが、最終日が雨で中止になったため、通算10アンダーのままプロ4年目で初優勝を手にした[6]。日下部の初優勝を、自宅で日下部からの電話で聞いた尾崎将司は「半勝ちだ」 と言ったが、日下部は”半立ち”と聞き違え、受話器を握りしめたまま、直立不動の姿勢で佇んでいた[4]

1997年カシオワールドオープンでは3日目に首位と1打差で2位に着けると[7]、18番の2オンで抜け出して尾崎を逆転し[8]、ツアー通算2勝目[1] [2]を挙げる。

1998年日経カップ 中村寅吉メモリアルでも69をマークして尾崎との4打のアドバンテージをひっくり返し[9]、ツアー通算3勝目[1] [2]を挙げる。今野康晴と共にワールドカップ日本代表にも選出され、マティアス・グレンバーグ&パトリック・ショーランドスウェーデン)と並ぶ11位タイに終わる。

2007年には競技生活から離れてレッスン活動に従事し、世田谷区で会員制インドアゴルフスタジオWASSを主宰[1] [2]するが、2019年からはシニアツアーに本格参戦[10]

主な優勝

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  • 1994年 - 九州オープン
  • 1995年 - ペプシ宇部
  • 1997年 - カシオワールドオープン
  • 1998年 - 日経カップ 中村寅吉メモリアル
  • 2001年 - 九州オープン

脚注

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  1. ^ a b c d e 日下部光隆 プロフィール|GDO ゴルフダイジェスト・オンライン
  2. ^ a b c d e プロ一覧 | 藤沢ジャンボゴルフ
  3. ^ a b 高橋三千綱『あの一打 勝負を決めたあの一打は、まるで人生のように熱く、激しく、重かった』日本ヴォーグ社、1997年6月1日ISBN 4529029212、p22。
  4. ^ a b c d e f 『あの一打 勝負を決めたあの一打は、まるで人生のように熱く、激しく、重かった』、p23。
  5. ^ a b 1995年05月20日 日下部が単独トップ ペプシ宇部興産第3日
  6. ^ History 宇部72㏄の歴史
  7. ^ 1997年11月29日 2位の日下部 カシオゴルフ第3日
  8. ^ 日下部光隆、大きな勝利を飾る!
  9. ^ ジャンボ転落。日下部光隆が大逆転!
  10. ^ ゴルフ侍、見参!【真剣勝負!日下部光隆プロvsトップアマチュア】

外部リンク

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