日下部光隆
Mitsutaka KUSAKABE | |
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基本情報 | |
名前 | 日下部 光隆 |
生年月日 | 1968年11月10日(55歳) |
身長 | 173 cm (5 ft 8 in) |
体重 | 75 kg (165 lb) |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県 |
経歴 |
日下部 光隆(くさかべ みつたか、1968年11月10日 - )は神奈川県出身のプロゴルファー。
来歴
[編集]1988年神奈川県アマ、1989年・1990年に朝日杯全日本学生連覇、1990年東京アマなど多数のアマチュアタイトルを獲得[1] [2]。
1991年にプロテストに合格し、同年のマルマンオープンでプロデビュー[1]すると、ショートゲームの達人と称された技術を遺憾なく発揮[2]。
1995年のペプシ宇部興産では初日、2日目共に70で回って4アンダー6位タイのグループに着けると、3日目には最終組から一つ前の組でスタートし、 ブラント・ジョーブ&ジャック・オキーフ(アメリカ)と同組で積極的に攻めていく[3]。1番では2オンに失敗するも2.5mにアプローチを寄せてパーを決め、続く2番ではバーディを奪う[3]。4番ではロングホールの2オンを狙ったが、ボールはグリーン右手前のバンカーに入ってしまった[4]。ピンまでおよそ20ヤードあったが、強風の中で冷静にボールの落し所を測り、サンドウエッジをボールの3cm後ろに叩きつけた[4]。風で砂塵が舞い上った中から白球が伸び上り、グリーンに落ちたボールは糸で引っ張られるようにカップに向って転がり、快心のチップインイーグルとなった[4]。この後も4バーディ、1ボギーで[4]一気に66をマークして[5]、2位に3打差をつけて[4]単独首位[5]に立ったが、最終日が雨で中止になったため、通算10アンダーのままプロ4年目で初優勝を手にした[6]。日下部の初優勝を、自宅で日下部からの電話で聞いた尾崎将司は「半勝ちだ」 と言ったが、日下部は”半立ち”と聞き違え、受話器を握りしめたまま、直立不動の姿勢で佇んでいた[4]。
1997年のカシオワールドオープンでは3日目に首位と1打差で2位に着けると[7]、18番の2オンで抜け出して尾崎を逆転し[8]、ツアー通算2勝目[1] [2]を挙げる。
1998年の日経カップ 中村寅吉メモリアルでも69をマークして尾崎との4打のアドバンテージをひっくり返し[9]、ツアー通算3勝目[1] [2]を挙げる。今野康晴と共にワールドカップ日本代表にも選出され、マティアス・グレンバーグ&パトリック・ショーランド(スウェーデン)と並ぶ11位タイに終わる。
2007年には競技生活から離れてレッスン活動に従事し、世田谷区で会員制インドアゴルフスタジオWASSを主宰[1] [2]するが、2019年からはシニアツアーに本格参戦[10]。
主な優勝
[編集]- 1994年 - 九州オープン
- 1995年 - ペプシ宇部
- 1997年 - カシオワールドオープン
- 1998年 - 日経カップ 中村寅吉メモリアル
- 2001年 - 九州オープン
脚注
[編集]- ^ a b c d e 日下部光隆 プロフィール|GDO ゴルフダイジェスト・オンライン
- ^ a b c d e プロ一覧 | 藤沢ジャンボゴルフ
- ^ a b 高橋三千綱『あの一打 勝負を決めたあの一打は、まるで人生のように熱く、激しく、重かった』日本ヴォーグ社、1997年6月1日、ISBN 4529029212、p22。
- ^ a b c d e f 『あの一打 勝負を決めたあの一打は、まるで人生のように熱く、激しく、重かった』、p23。
- ^ a b 1995年05月20日 日下部が単独トップ ペプシ宇部興産第3日
- ^ History 宇部72㏄の歴史
- ^ 1997年11月29日 2位の日下部 カシオゴルフ第3日
- ^ 日下部光隆、大きな勝利を飾る!
- ^ ジャンボ転落。日下部光隆が大逆転!
- ^ ゴルフ侍、見参!【真剣勝負!日下部光隆プロvsトップアマチュア】