施愚
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施愚 | |
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『中国近現代名人図鑑』より | |
プロフィール | |
出生: | 1875年(清光緒元年) |
死去: |
1930年(民国19年) 中華民国 |
出身地: | 清四川省重慶府涪州 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 施愚 |
簡体字: | 施愚 |
拼音: | Shī Yú |
ラテン字: | Shih Yü |
和名表記: | し ぐ |
発音転記: | シー ユー |
施 愚(し ぐ、中国語: 施愚; 拼音: Shī Yú; ウェード式: Shih Yü)は、清末・中華民国の政治家。字は鶴雛。号は小山。
事績
[編集]1898年(光緒24年)、戊戌科進士となり、翰林院で編修に任ぜられた。同年から日本・アメリカ・ドイツの各国に留学している。帰国後は戸部江西司主事に任ぜられ、1905年(光緒31年)、考察憲政大臣顧問や山東巡撫となった。1907年(光緒33年)、憲政編査館科員となり、後に度支部清理財政処総弁に転じている。1911年(宣統3年)5月、弼徳院参議となり、後に法制院副使に任ぜられた[1]。
1912年(民国元年)に中華民国が成立すると、施愚は大総統府秘書として起用され、同年7月に法制局局長兼法典編纂会会長に任命された[2]。1914年(民国3年)3月、約法会議副議長に任ぜられ、6月には参政院憲法起草委員会委員として、いわゆる「天壇憲法」の起草に従事している。袁世凱が皇帝即位を目論むと、1915年(民国4年)9月に施は洪憲大典籌備処委員に任ぜられ、また一等伯爵にも封じられた[3]。しかしこのために、護国戦争後に袁が死去すると、施も皇帝即位画策の主犯として指名手配されてしまう[1]。
後に赦され、直隷派の江蘇督軍である李純の幕僚となる[3]。1919年(民国8年)2月には上海で行われた南北和平交渉に北方代表の1人として加わった。1925年(民国14年)8月、国憲起草委員会委員に招聘され、1927年(民国16年)1月には安国軍総司令部政治討論委員会委員を務めている。晩年は政界を離れ、北京や上海に寓居した。1930年(民国19年)、死去。享年56[1]。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。
- 「施愚」華夏経緯網、2003年6月26日。