斎藤博之
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斎藤 博之(さいとう ひろゆき、1919年5月22日 - 1987年3月8日[1])は、日本の洋画家、絵本作家。
独立美術協会展に出品して入選。『しらぬい』で第2回講談社出版文化賞絵本賞、『がわっぱ』他で、第21回小学館絵画賞(現在の小学館児童出版文化賞)を受賞。
経歴
[編集]伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
- 1919年5月22日、北京政府奉天省の奉天市(現在の瀋陽市)に生まれる[2]。
- 1937年、奉天第一中学校を卒業後、南満洲鉄道や、満蒙百貨店に勤務[2]。
- 1939年、上京。帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科に入学する[2]。
- 1941年、帝国美術学校在学中、『国引き』を独立美術協会展に出品して入選[2]。
- 1943年9月、戦争のため、帝国美術学校の卒業が繰り上げとなる[2]。
- 1944年3月、結婚。同年6月に応召して、ソ連国境に近くの満洲国黒河省神武屯の守備にあたる[2]。同年8月、第14方面軍を基幹とする比島方面軍に転属。ルソン島の南部の小島に配属された所属部隊は米軍の攻撃を避け、深い山の中を散り散りになって逃げ惑った[2]。
- 1945年8月15日の敗戦も知らないままに敗残兵として山に潜伏し続け、年末に下山したところで、捕囚となって収容所生活を送る[2]。
- 1946年4月に復員後、東宝撮影所の動画部門に勤め、そこで画家の森芳雄と知り合った[2][3]
- 1947年、帝国美術学校の再編により発足した造型美術学園(学園長=山脇巌)の助手となり、石膏デッサンの指導などを担当[2]。
- 1948年春、同学園が武蔵野美術学校(学園長=名取堯)に再編される[4]なかで、助手を辞職[2]。以後、児童文学作品の挿絵などを手がけるようになる。
- 1952年、初めての個展を開催[2]。
- 1971年、『しらぬい』で第2回講談社出版文化賞絵本賞。
- 1973年、『がわっぱ』他で、第21回小学館絵画賞(現在の小学館児童出版文化賞)を受賞。
- 1987年3月8日、死没。
- 1993年、『斎藤博之作品集』(笛田舎)刊行。
- 2002年6月28日〜8月4日、富山県水墨美術館で『馬とカッパと絵本の世界 斎藤博之』展が開催。
主な著書
[編集]画集
[編集]- 『河童曼陀羅 斎藤博之画集』(岩崎書店、1977年)
- 『斎藤博之作品集』(笛田舎、1993年)
美術手引書
[編集]- 『水墨画の制作』(理工学社、1977年)
- 『水墨画の制作技法』(理工学社、1986年)
絵本
[編集]- 『しらぬい 創作絵本1』(たかしよいち、岩崎書店、1970年)
- 『がわっぱ-かっぱものがたり 創作絵本3』(たかしよいち、岩崎書店、1971年)
- 『ほらふきてんぐ 創作絵本9』(たかしよいち、岩崎書店、1973年)
- 『鬼がら 創作絵本28』(たかしよいち、岩崎書店、1972年)
- 『サーカスのライオン おはなし名作絵本 16』(川村たかし、ポプラ社、1974年)
- 『むささび星 おはなし名作絵本 11』(いまにしすけゆき、ポプラ社、1978年)
- 『まめっこころころ 日本みんわ絵本』(吉沢和夫、ほるぷ出版、1984年)
- 『おにの子こづな 日本みんわ絵本』(木暮正夫、ほるぷ出版、1986年)
- 『雷のおか 絵本むかしばなし傑作選 19』(おおいしまこと、国土社、1997年)
- 『おにぎりぱくりん 新装版 おいしいおにぎりをたべるには』(今西祐行、全国学校給食協会、1994年)
- 『オキクルミのぼうけん 新装版 アイヌの民話』(萱野茂、小峰書店、1998年)
- 『木ぼりのオオカミ 新装版 アイヌの民話』(萱野茂、小峰書店、1998年)
- 『風の神とオキクルミ 新装版 アイヌの民話』(萱野茂、小峰書店、1999年)
挿絵を描いた出版物
[編集]- 『小さなかめと小さな花たば』(米川みちこ 金の星社<創作こどもらいぶらり5> 1971年)
- 『ぐみの木の丘』(米川みちこ 金の星社<創作児童文学9> 1972年)
- 『日本の伝説 24 富山の伝説』(角川書店、1977年)
- 『赤い鳥名作童話 10 ごんぎつね・張紅倫』(赤い鳥の会、小峰書店、1982年)
- 『坊っちゃん 講談社青い鳥文庫 69-1 』(夏目漱石、講談社、1983年)
- 『なめとこ山のくま』(フォア文庫、岩崎書店、1987年)
- 『天保の人びと』(偕成社文庫、2000年)
- 『日本の鉄 新版 図説日本の文化をさぐる』(小峰書店、2004年)
- 『法隆寺の建築 新版 図説日本の文化をさぐる』(小峰書店、2004年)
- 『蒼い狼の子 新装版』(小峰書店、2007年)
- 『鈴木喜代春児童文学選集 第5巻 二つの川』(らくだ出版、2009年)