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斎藤努

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
斉藤務から転送)
さいとう つとむ
斎藤 努
プロフィール
出身地 日本の旗 日本 東京都
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1942-06-26) 1942年6月26日(82歳)
最終学歴 日本大学芸術学部
職歴 毎日放送アナウンサーテレビプロデューサーなど
活動期間 1966年 - 2002年(毎日放送)
2002年 - (羽衣国際大学)
ジャンル アナウンサー
配偶者 佐々木美絵(妻)
担当番組・活動
出演経歴 『歌え!MBSヤングタウン
ヤングおー!おー!
おはよう700
MBSナウ
あどりぶランド
他多数
その他 羽衣国際大学名誉教授

斎藤 努(さいとう つとむ、1942年6月26日[1] - )は、毎日放送の元アナウンサーテレビプロデューサーフリーアナウンサー

羽衣国際大学名誉教授[要出典]。ブラザーナイト初期提唱者[2]。「平松邦夫の公共政策ラボ[3]」PPL-100人委員会呼びかけ人[4]

来歴・人物

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東京都出身[1]東京都立千歳高等学校から日本大学芸術学部へ進学。大学卒業後の1966年に、アナウンサーとして毎日放送へ入社した。同期のアナウンサーには、水谷勝海がいる。また、アナウンサー時代に、『アップダウンクイズ』(MBSテレビ)の出題役として知られた佐々木美絵(出演当時は毎日放送アナウンサー、現在はフリーアナウンサー・羽衣国際大学教授)と結婚している。

毎日放送への入社2年目の1967年10月には、MBSラジオで公開収録形式の深夜番組『歌え!MBSヤングタウン』(現『MBSヤングタウン』)を開始したことを機に、全曜日(月 - 土曜日)の司会に抜擢。その後『ヤングおー!おー!』でも司会を務めた。

野球のルールを詳しく知らないことを伏せながら、スポーツ実況の希望者に限って門戸を開けていた1965年度の毎日放送アナウンサー試験に合格したことから、若手時代には水谷と共にスポーツアナウンサーとしても活動。1968年4月からは、週の後半(木 - 土曜日)にプロ野球中継の実況を担当した関係で、『歌え!MBSヤングタウン』への出演を週の前半(月 - 水曜日)に限っていた。この時に週後半の司会を任された桂三枝(現:六代桂文枝)とは、後に『ヤングおー!おー!』などでたびたび共演している。広範囲の番組を担当したため、スポーツアナウンサーとしての斎藤の活動期間は短かった。

テレビ番組では『ヤングおー!おー!』以外にも、数々の全国ネット番組で司会を担当。毎日放送のネットチェンジ後にTBSが『おはよう720』『おはよう700』を制作していた時期には、毎日放送からの出向扱いで、小堀勝啓(当時の中部日本放送アナウンサーで、斎藤と同じ誕生日)などとともに同番組のキャスターを務め、海外取材では西アフリカのアンゴラやパキスタン、イスラエル、中米各国など多数の国々を取材。またTBS系列の音楽番組『ザ・ベストテン』の最初の中継(1978年1月26日、第8位山口百恵赤い絆」)では、MBSから「追っかけマン(レポーター)」として出演。しばらくMBSからの中継に追っかけマンとして出演して後に、後輩の青木和雄(現在はフリーアナウンサー)に引き継いだ。

アナウンサー時代の後期には、『あどりぶランド』(全国のテレビ局で初めて局員アナウンサーを全員出演させたレギュラー番組)などの企画を発案。また、1984年10月から1991年9月まで、MBSテレビのローカルニュース番組『MBSナウ』の木 - 土曜日でキャスターを務めた。

1991年の人事異動でアナウンス室を離れてからは、テレビ第二制作部のプロデューサーやテレビ制作専任局長などを歴任。プロデューサーとして『あどりぶランド』などのテレビ番組を担当したほか、やしきたかじんやリンゴ・モモコの番組をプロデュースした。また『アジア音楽祭』のプロデューサーを務め、上海、ベトナム、マレーシア等の音楽界で谷村新司らとともに国際文化親善に注力した。その後一時はアナウンサー室長としてアナウンス室に復帰していた。

2002年、勤続36年の毎日放送を定年退職。

退職後は、羽衣国際大学の教授としてメディアコミュニケーション・アナウンスなどを研究する一方で、放送・メディア映像学科を開設した。同大学では、産業社会学部長を経て、2008年に副学長へ就任。停年退官後、名誉教授になった2012年4月には、株式会社ウィズを設立するとともに、映像・出版・広告の制作やイベント・講師派遣などの事業を始めた。

なおMBSラジオでは、大学教授へ転身後の2005年4月から2006年3月まで、深夜番組『ラジオの達人』月曜日「らじおゼミナール」のパーソナリティーを担当。当時の教え子たちを同番組に出演させていた。また、2012年7月14日放送の『復活!桂三枝の歌え!MBSヤングタウン』(三枝の6代目桂文枝襲名を記念した特別番組)では、久々に公開収録の司会を務めている。

過去に出演した番組

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テレビ

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ほか

ラジオ

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  • MBSヤングタウン [1]
  • それ行け!電リク「ジャンジャン歌謡曲」(1970年10月11日 - 1971年4月11日)
  • 斎藤努の700(1975年11月3日 - 1976年4月1日、毎週月 - 木曜日7:00 - 8:00に生放送)
  • ラジオの達人

ほか

その他の活動

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毎日放送在職中

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レコード
その他

毎日放送からの定年退職後

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  • 平松邦夫後援会長(平松が第18代大阪市長へ転じた時期に活動)
  • 「平松邦夫の公共政策ラボ」PPL-100人委員会呼びかけ人
  • ブラザーナイト初期提唱者
  • 私の履歴書・六代桂文枝(三枝)その2(2014年7月3日、BSジャパン) - 「ヤングタウン」出演時の証言者として

関連する人物

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脚注

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  1. ^ a b c d e f 『こちら・あどりぶランド』 1986, pp. 63–67.
  2. ^ ブラザーナイト 初期提唱者のご紹介 ブラザーナイト公式サイト、2021年6月9日閲覧。
  3. ^ 平松邦夫の公共政策ラボ (PPL) 、2020年10月1日閲覧。
  4. ^ PPL-100人委員会 呼びかけ人”. 平松邦夫の公共政策ラボ (PPL). 2013年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年2月17日閲覧。

参考文献

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  • 毎日放送 編著『こちら・あどりぶランド : This is MBS』八曜社、1986年3月15日。NDLJP:12276263   

関連項目

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