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文昭院霊廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
左右廊(焼失)内部
鐘楼(焼失)
奥院唐門(焼失)
拝殿(焼失)内部
現存する旧文昭院霊廟奥院中門(増上寺徳川家墓所入口)

文昭院霊廟(ぶんしょういんれいびょう)は、江戸幕府6代将軍徳川家宣霊廟建築。芝増上寺に造営された。豪華な彫刻で飾られていたが、東京大空襲で焼失した。

概要

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江戸幕府第6代将軍・徳川家宣は、正徳2年(1712年)10月14日に死去した。霊廟は増上寺境内北側に設けられた。霊廟の建立は同年12月から開始され、翌正徳3年(1713年)9月に完成している。霊廟は1930年5月23日、当時の国宝保存法に基づき国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。1945年、太平洋戦争の空襲で大部分の建物が焼失。家宣の墓所は1958年に発掘調査が行われた後、改葬されており、現在は増上寺安国殿裏の徳川家墓所に墓塔が建てられている。

建造物

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以下の建造物が国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されていた。

建造物は1930年5月23日指定[1]。附(つけたり)指定の銅鐘と銅燈籠は1942年12月22日追加指定[2]
  • 文昭院(徳川家宣)霊廟
    • 本殿・相之間・拝殿(1棟)
    • 中門及び前廊(1棟)
    • 左右廊 2棟
    • 渡廊
    • 内透塀
    • 仕切門
    • 鐘楼 附:銅鐘
    • 井戸屋形
    • 水盤舎
    • 勅額門
    • 外透塀 2棟
    • 二天門
    • 奥院宝塔(銅造)
    • 奥院中門(銅造)
    • 奥院波板塀
    • 奥院拝殿
    • 奥院唐門及び前廊(1棟)
    • 奥院透塀 2棟
    • 附:銅燈籠138基
  • 慎徳院(徳川家慶)宝塔
    • 宝塔(石造)石柵付
    • 中門
    • 波板塀
    • 拝殿
    • 唐門及び前廊
    • 透塀 2棟
  • 昭徳院(徳川家茂)宝塔・静寛院宮(徳川家茂夫人)宝塔
    • 昭徳院宝塔(石造)石柵付
    • 静寛院宮宝塔(銅造)石柵付
    • 中門
    • 波板塀
    • 拝殿
    • 唐門及び前廊
    • 透塀 2棟

文昭院霊廟は増上寺本堂北側の北御霊屋の南半部を占め、東を正面として営まれていた。所在地は現在の港区芝公園、東京プリンスホテルの敷地にあたる。霊廟建物群の配置はおおよそ次のようであった(太字の建物は旧国宝)。霊廟の入口には二天門、これをくぐると左前方に勅額門があり、勅額門の左右に外透塀がある。勅額門をくぐり参道を進むと、右に鐘楼、左に水盤舎、その斜め後方に井戸屋形があった。参道を進んだ正面には中門及び前廊、その左右に左右廊があり、左右廊から発する内透塀が御霊屋を囲む。御霊屋は本殿・相之間・拝殿を一体とした権現造である。相之間の左方(南)に渡廊が接続し、本殿背後には奥院(墓所)への入口である仕切門がある。奥院は3区画に分かれ、左(南)の区画に文昭院、中央に慎徳院、右に昭徳院と静寛院宮の宝塔(墓塔)がある。奥院の各区画は唐門及び前廊透塀拝殿中門波板塀宝塔から構成される。[3]

本殿は方三間、入母屋造で、組物等を極彩色、その他は彩色、漆塗、蒔絵等で装飾し、長押上の壁面は装飾彫刻で飾る。拝殿は桁行七間、梁間三間、入母屋造で、本殿・拝殿間を桁行四間、梁間一間の相之間でつなぐ。以上の建物は銅瓦葺きとする。奥院宝塔は円柱形の塔身の上に宝形屋根を載せた形式の銅造塔である。同じ増上寺にある台徳院霊廟(2代将軍秀忠)では、本殿は方三間裳階付としていたのに比べると小規模になっている。奥院宝塔は、台徳院霊廟では覆屋内の木造塔であったが、文昭院霊廟では屋外に建つ銅造塔となっている。[4]

徳川将軍のうち、4代家綱と5代綱吉の霊廟は上野寛永寺に、2代秀忠、6代家宣および7代家継の霊廟は増上寺に営まれたが、「享保の改革」を行った8代将軍吉宗は御霊屋の建立を禁止した。このため、吉宗以後の将軍の霊は既存の霊廟に合祀されるようになり、奥院の宝塔のみが新設されるようになった[5]。なお、9代家重、12代家慶、14代家茂の宝塔は増上寺、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の宝塔は寛永寺にあり、15代慶喜の墓は谷中霊園に隣接する寛永寺徳川家墓所にある。

戦災被害とその後の変遷

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文昭院宝塔(現存)
慎徳院宝塔(現存)
昭徳院宝塔(現存)

霊廟は1945年3月10日に空襲に遭い、旧国宝指定物件の21棟のうち、奥院宝塔と奥院中門を除く19棟、附指定の15棟のうち宝塔3基を除く12棟、附指定の銅鐘、附指定の銅燈籠138基のうち43基が焼失した。これら焼失物件は、1949年10月13日の官報告示で正式に指定解除された[6]

焼け残った奥院宝塔及び奥院中門と、附指定の慎徳院宝塔、静寛院宮宝塔、昭徳院宝塔、銅燈籠95基は1950年の文化財保護法施行後は重要文化財となった。また、以下の5基の宝塔は、文昭院霊廟の隣接地にあったもので、元は崇源院(秀忠夫人)霊牌所の附(つけたり)指定であったが、同霊牌所の戦災焼失後は文昭院霊廟の「附」という扱いになった。

  • 崇源院(徳川秀忠夫人)宝塔(石造)
  • 桂昌院(徳川綱吉母)宝塔(銅造)
  • 天英院(徳川家宣夫人)宝塔(石造)
  • 月光院(徳川家継母)宝塔(石造)
  • 広大院(徳川家斉夫人)宝塔(石造)[7]

戦災焼失をまぬがれた銅燈籠95基は原位置から移動したため、1957年7月24日付けで重要文化財の指定を解除された。同じく戦災焼失をまぬがれた奥院宝塔及び奥院中門と、附指定の宝塔8基(崇源院、桂昌院、天英院、月光院、広大院、慎徳院、昭徳院、静寛院宮)は、墓地の改葬に伴い、1958年5月14日付けで重要文化財の指定を解除された。以上により、文昭院霊廟関係の重要文化財はすべて指定解除されている。

徳川家霊廟に埋葬されていた徳川将軍、夫人、側室らの遺骨は1958年に学術調査が実施された後、桐ケ谷斎場で荼毘に付され、増上寺安国殿裏の増上寺御霊屋(徳川将軍家墓所)に改葬された。

増上寺安国殿裏の増上寺御霊屋(徳川将軍家墓所)には、有章院宝塔、惇信院宝塔を含む旧重要文化財の宝塔8基(下記)が移設されている。また、旧文昭院霊廟奥院中門(銅製、旧重要文化財)が同墓所入口の門として転用されている。

  • 増上寺御霊屋に移設された宝塔
    • 崇源院(徳川秀忠夫人)宝塔(石造) - 改葬後は台徳院(秀忠)を合葬する(台徳院宝塔は木造であったため戦災で焼失)
    • 文昭院(徳川家宣)宝塔(銅造) - 改葬後は天英院(家宣夫人)を合葬する
    • 有章院(徳川家継)宝塔(石造)
    • 月光院(徳川家継母)宝塔(石造) - 改葬後は将軍の生母・側室等の合祀塔となっている
    • 惇信院(徳川家重)宝塔(石造)
    • 慎徳院(徳川家慶)宝塔(石造)
    • 昭徳院(徳川家茂)宝塔(石造)
    • 静寛院宮(徳川家茂夫人和宮)宝塔(銅造)

なお、桂昌院(綱吉母)宝塔(銅造)、天英院(家宣夫人)宝塔(石造)、広大院(家斉夫人)宝塔(石造)は増上寺には残っていない。[8]

脚注

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  1. ^ 昭和5年5月23日文部省告示第161号(参照:国立国会図書館デジタルコレクション
  2. ^ 昭和17年12月22日文部省告示第648号(参照:国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ 『徳川家霊廟』p.19、『戦災等による焼失文化財 増訂版 建造物編』
  4. ^ 『徳川家霊廟』pp.88 - 89、『戦災等による焼失文化財 増訂版 建造物編』
  5. ^ 『徳川家霊廟』pp.89 - 90
  6. ^ 昭和24年10月13日文部省告示第181号(参照:国立国会図書館デジタルコレクション
  7. ^ 官報告示及び『戦災等による焼失文化財 増訂版 建造物編』は桂昌院宝塔を石造、月光院宝塔を銅造とするが、『国宝・重要文化財建造物目録』(1990年版)は逆に桂昌院宝塔を銅造、月光院宝塔を石造とする。諸資料から後者が正しいと思われる。
  8. ^ 桂昌院宝塔、天英院宝塔、広大院宝塔の現所在地は文化庁および増上寺の公式資料では公表されていないが、桂昌院宝塔は埼玉県所沢市狭山不動尊、天英院宝塔と広大院宝塔は東京都清瀬市長命寺に移設されている。参照:青山貞一・池田こみち「増上寺石灯籠等移築実態調査」(2019年1月13日閲覧)

参考文献

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  • 文化庁編『戦災等による焼失文化財 増訂版 建造物編』、便利堂、1983年
  • 文化庁編『国宝・重要文化財建造物目録』、第一法規、1990年(「指定解除」の項)
  • 港区立港郷土資料館編・発行『徳川家霊廟』(特別展図録)、2009年

関連項目

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