敷波 (敷波型駆逐艦)
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日本海軍駆逐艦「敷波」時代 | |
艦歴 | |
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建造所 | クリクトン造船所(ロシア帝国)[1] |
起工 | 1892年[2] |
進水 | 1893年7月[2] |
就役 | 1894年[2] |
その後 | 1905年1月1日捕獲[1] 1905年10月7日浮揚[1] 1905年10月31日「敷波」と命名[1] 1905年12月12日駆逐艦編入[1] 1907年整備完了[1] 1912年8月28日三等駆逐艦[1] 1914年8月23日雑役船編入、掃海船指定、敷波丸と改名[1] |
除籍 | 1913年4月1日 |
廃船 | 1915年6月28日[1] |
売却 | 1915年10月27日[1] |
性能諸元(日本艦籍編入後「敷波」) | |
排水量 | 常備:400トン |
全長 | 58.0m[3] |
全幅 | 7.4m[3] |
吃水 | 平均:3.4m[3] |
機関 | 主機:直立式三連成レシプロ蒸気機械2基、2軸 主缶:宮原式水管缶(石炭専焼)2基(新造時ベルヴィール式水管缶) 馬力:3,000shp[3] |
最大速力 | 22ノット[3] |
燃料 | 石炭:90トン[3] |
航続距離 | |
乗員 | 64名[3] |
兵装 | 47mm単装砲6基[3] 37mm単装砲3基[3] 45cm魚雷発射管単装2門[3] |
敷波(しきなみ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、敷波型駆逐艦の1番艦である。元ロシア水雷巡洋艦カザルスキー級 (Казарский) の「ガイダマーク」(Гайдамак)[4]。同名艦に吹雪型駆逐艦(「特II型、綾波型」)の「敷波」があるため、こちらは「敷波 (初代)」や「敷波I」などと表記される。
艦歴
[編集]日露戦争に参加。1905年(明治38年)1月1日、旅順で沈没状態で捕獲され、同年10月7日に旅順で引き上げ、整備。同年10月31日に「敷波」と命名。1913年(大正2年)4月1日に除籍され[5]、1914年(大正3年)8月23日に雑役船「敷波丸」となる。同年、青島の戦いに参加[1]。1915年(大正4年)6月28日に廃船となり、同年10月27日に売却された。
艦長
[編集]※艦長等は『官報』に基づく。
- 駆逐艦長
- 西野作太郎 大尉:1909年11月1日 - 1910年4月21日
- (兼)森山明 大尉:1910年4月21日 - 1910年10月4日
- (兼)竹内正 大尉:1910年10月4日 - 1910年12月1日
- 竹内正 大尉:1910年12月1日 - 1911年4月12日
- 福岡成一 大尉:1911年4月12日 - 1911年8月10日
- 堀江平弥 大尉:1911年8月10日 - 1911年12月27日
- 福岡成一 大尉:1911年12月27日 - 1912年7月5日
- 野島新之丞 大尉:1912年7月5日 -
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『日本海軍史』第7巻、306頁。
- ^ a b c 『写真日本海軍全艦艇史』資料編「主要艦艇艦歴表」11頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『世界の艦船増刊第107集 日本駆逐艦史』40頁。
- ^ 艦名表記と艦種は、児島襄(日本語)『日露戦争 第一巻』文藝春秋、東京、1990年、586(ほか)頁。ISBN 9784165063605 。「水雷巡洋艦「ガイダマーク」と「フサードニク」」 を参照。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 74頁。◎大正二年四月一日(達六六) 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「鈴谷」「葛城」ヲ、驅逐艦ノ欄内「文月」「皐月」「漣」「卷雲」「敷波」「霞」ヲ、水雷艇ノ欄内「第三十號」「第二十五號」「第五十五號」「第五十六號」「第五十七號」「第三十一號」「第三十二號」「第三十六號」「第三十七號」「第三十八號」「第三十九號」「第四十號」「第四十一號」「第四十三號」「第四十四號」「第四十五號」「第四十六號」「第六十二號」「第六十三號」「第六十四號」「第六十五號」ヲ削ル。
参考文献
[編集]- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 『世界の艦船増刊第107集 日本駆逐艦史』海人社、2012年12月。
- 艦船模型スペシャル No.17 日本海軍 駆逐艦の系譜 1