敷根頼元
時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 永禄9年(1566年) |
死没 | 慶長3年11月7日(1598年12月5日) |
別名 | 通称:三郎五郎、藤左衛門尉 |
戒名 | 宗徹透林 |
主君 | 島津義弘 |
氏族 | 敷根氏 |
父母 | 父:敷根頼兼 |
子 |
敷根立頼室 養子:立頼(島津忠長三男) |
敷根 頼元(しきね よりもと)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。
出自
[編集]敷根氏は大隅国の国人。清和源氏流美濃源氏の嫡流・土岐氏を祖とし、その子孫[1]が元暦元年(1184年)に大隅小河院敷根村[2]を拝領し下向、兵乱を避けて一時肥後国の球磨へ逃れ、再び敷根に戻った際に敷根氏を称した家で、先祖代々敷根を領してきた。
略歴
[編集]永禄9年(1566年)、敷根氏14代当主・敷根頼兼の嫡子として誕生。
主君・島津義弘に従い豊後国攻めの際はその供をして八代へ入った。天正15年(1587年)に島津氏が豊臣秀吉に降伏し、義弘が初めて上洛する際にも、その供を務めた。文禄の役にもその供をすることになり肥前国名護屋城へ入ったが、義弘の嫡子・久保が朝鮮へ渡海するための船が遅参していたため、頼元は自らの船を久保に差し出している。頼元はこの褒美として、1,000石を拝領する感状を得た。
文禄4年(1595年)、祖父・頼賀が下大隅の田上城[3]へ移動となり、敷根氏は本貫地であった敷根より離れる事となった[4]。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死去に伴い、日本軍は11月15日を以って帰陣すると定めていたが、順天に残る小西行長らが敵船により海上を封鎖され、それが叶わなくなる。泗川新城にあった島津義弘は、小西らの安否を確かめるべく頼元と鎌田政冨を使いに出し、頼元らは敵番船の中を掻い潜って無事に順天へ入った。しかし、その帰路で逆風に遭い、船が大破して、政冨共々溺死した。その際に先の感状も流失した。
頼元の名跡は、島津忠長の三男である立頼が婿養子となり継ぐのであるが、島津一門となった敷根氏は慶長19年(1614年)に市成[5]へ移封、寛永20年(1643年)より島津姓を許されると市成島津家となった。
脚注
[編集]- ^ 『本藩人物誌』では土岐光定とする。
- ^ 現・鹿児島県霧島市国分敷根。
- ^ 現・鹿児島県垂水市。
- ^ 天正6年(1578年)に父の頼兼は死去しているが、家督は頼元ではなく、まだ祖父の頼賀にあった模様。
- ^ 現・鹿児島県鹿屋市輝北町市成。
出典
[編集]- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)
- 稲葉行雄『「さつま」歴史人名集』(高城書房出版)ISBN 4-924752-28-2