敦賀丸
敦賀丸 | |
---|---|
基本情報 | |
船種 | 貨物船 |
クラス | T型貨物船 |
船籍 | 大日本帝国 |
所有者 | 日本郵船 |
運用者 |
日本郵船 大日本帝国陸軍 |
建造所 | 三菱合資会社長崎造船所 |
母港 | 東京港/東京都 |
姉妹船 | 28隻 |
信号符字 | NCHK→JPAD[1] |
IMO番号 | 18490(※船舶番号)[1] |
建造期間 | 415日 |
就航期間 | 9,355日 |
経歴 | |
起工 | 1915年4月28日[2][3][4] |
進水 | 1916年3月8日[2][3][4] |
竣工 |
1916年6月13日[5] 1916年6月15日[2][3][4] |
最後 | 1942年1月24日 被雷沈没(バリクパパン沖海戦) |
要目 | |
総トン数 |
7,289トン(1915年)[2][3][6] 6,987トン(1942年)[5][7] |
純トン数 | 4,284.41トン[6] |
載貨重量 | 10,624トン[2][3][6][7] |
排水量 | 15,363トン(満載)[6] |
垂線間長 | 135.63m[2][3][6][7] |
型幅 | 17.68m[2][3][6][7] |
型深さ | 10.36m[2][3][6][7] |
高さ |
29.56m(水面からマスト最上端まで) 15.54m(水面から煙突最上端まで) |
満載喫水 | 8.07m[6] |
ボイラー | 石炭専燃缶 |
主機関 | 三連成レシプロ機関 2基[2][3][6][7] |
推進器 | 2軸 |
最大出力 | 5,300PS(連続)[2][3][6][7] |
最大速力 | 14.669ノット(試運転)[2][3][6][7] |
航海速力 | 12.0ノット(満載)[6] |
航続距離 | 11ノットで18,000海里 |
1937年8月25日徴用。 高さは米海軍識別表[8]より(フィート表記)。 |
敦賀丸(つるがまる)は日本郵船の貨物船[9]。T型貨物船(T型船)と呼ばれるものの一隻[10]。
船歴
[編集]三菱合資会社長崎造船所で建造され[6]。1915年(大正4年)4月28日に起工[2][3][4]。1916年(大正5年)3月8日に進水し[2][3][4]、同年6月15日[2][3][4]、または同年6月13日竣工[5]。
竣工した「敦賀丸」はニューヨーク線、ハンブルク線、リバプール線などに配された[11]。第一次世界大戦中には、地中海派遣艦隊への物資や兵員の輸送のため開設されたポートサイド航路に配されている[12]。
1937年(昭和12年)8月25日、「敦賀丸」は陸軍に徴用されるが[13]、1938年(昭和13年)3月30日に一旦解傭[13]。解傭後はハンブルク線に配された[14]1940年(昭和15年)6月10日、第二次世界大戦にイタリアが参戦したことに伴い、日本郵船は近東伊太利線の休航を決定[15]。「敦賀丸」は同航路の最終船として同年6月20日に横浜を出港し[16]、8月9日にアデンに到着[16]。翌10日にアデンを出港し[16]、10月1日に横浜に到着した[16]。
1941年(昭和16年)7月21日、「敦賀丸」は陸軍に再度徴傭される[17]。1942年(昭和17年)1月、タラカン攻略に参加[17]。攻略部隊は1月7日にダバオを出撃し、10日から11日にかけて上陸が行われた[18]。続いてバリクパパン攻略に向かう[19]。攻略部隊は1月21日にタラカンを出撃し、23日に船団はバリクパパンの泊地に入った[20]。この時「敦賀丸」には坂口支隊の野砲兵大隊本部、野砲一中隊、高射砲大隊本部、同第二中隊主力、衛生隊主力などが乗船していた[21]。1月24日0時35分、0時40分、もしくは0時45分頃、「敦賀丸」は被雷した[22]。これはオランダ潜水艦「K XVIII」の雷撃によるものであった[23]。「敦賀丸」は同日6時ごろに沈没した[5]。戦死者数について、『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』には「敦賀丸」と「呉竹丸」(辰馬汽船、5,091トン)の合計で約30名[24]、『蘭印攻略作戦』には「敦賀丸」と「呉竹丸」が沈んだが、それによる坂口支隊の戦死者は39名であった[25]、とある。「敦賀丸」乗組員の戦死者は1名であった[26]。この後、バリクパパン攻略部隊はアメリカ海軍のクレムソン級駆逐艦4隻の襲撃を受けて輸送船3隻を撃沈されてしまう(バリクパパン沖海戦)。
脚注
[編集]- ^ a b “なつかしい日本の汽船 敦賀丸”. 長澤文雄. 2023年10月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n #創業百年の長崎造船所 pp.532-533
- ^ a b c d e f g h i j k l m n #郵船100年史 p.168
- ^ a b c d e f 『商船建造の歩み』177ページ
- ^ a b c d 『日本郵船戦時船史 上』29ページ
- ^ a b c d e f g h i j k l m 山田早苗「日本商船隊の懐古No.199」15ページ
- ^ a b c d e f g h #日本汽船名簿・敦賀丸
- ^ Lima_Maru_Class
- ^ 山田早苗「日本商船隊の懐古No.199」15ページ。『日本郵船戦時船史 上』29ページ
- ^ 『七十年史』111-112ページ
- ^ 『我社各航路ノ沿革』559ページ。『日本郵船株式會社五十年史』411、414ページ。『七十年史』208-209ページ。山田早苗「日本商船隊の懐古No.199」15ページ
- ^ 『我社各航路ノ沿革』475ページ
- ^ a b 『日本郵船戦時船史 上』33ページ
- ^ #郵船100年史 p.341
- ^ “なつかしい日本の汽船 欧州航路 - 昭和初期”. 長澤文雄. 2023年10月13日閲覧。
- ^ a b c d #郵船100年史 p.364
- ^ a b 『日本郵船戦時船史 上』30ページ
- ^ 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』144-145ページ
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』31ページ
- ^ 『蘭印攻略作戦』368-369ページ。『日本郵船戦時船史 上』31ページ
- ^ 『蘭印攻略作戦』368-369ページ
- ^ 『蘭印攻略作戦』369ページ。『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』198ページ。『日本郵船戦時船史 上』29ページ
- ^ 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』202ページ
- ^ 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』201ページ
- ^ 『蘭印攻略作戦』371ページ
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』34ページ
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C08050081300『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、49頁。
- 貨物課(編)『我社各航路ノ沿革』日本郵船株式會社貨物課、1932年
- 木津重俊(編)『世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史』海人社、1984年。ISBN 4-905551-19-6。
- 日本郵船株式会社(編)『日本郵船株式會社五十年史』日本郵船、1935年
- 日本郵船株式会社(編)『七十年史』日本郵船、1956年
- 防衛庁防衛研修所戦史室『蘭印攻略作戦』戦史叢書3、朝雲新聞社、1967年
- 防衛庁防衛研修所戦史室『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』戦史叢書26、朝雲新聞社、1969年
- 三菱造船株式会社(編)『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年。
- 三菱造船株式会社(編)『商船建造の歩み 1887~1958』三菱造船、1959年
- 山田早苗「日本商船隊の懐古No.199」船の科学 第49巻第2号(No.568)、14-15ページ
- 『日本郵船戦時船史 太平洋戦争下の社船挽歌 上』日本郵船、1971年