播隆
播隆(ばんりゅう、1786年(天明6年) - 1840年11月14日(天保11年10月21日)は、江戸時代後半の浄土宗の僧。播隆上人と敬称される。
槍ヶ岳の開山者、笠ヶ岳の再興者や、活性化となった。福井県坂井市丸岡町の護城山、岐阜県美濃市の片知山、各務原市の伊木山、関市の迫間山、加茂郡八百津町の三鉢洞、七宗町の東ヶ山や、長野県松本市の女鳥羽の滝などで修行する毎日を送っていたことでも知られる。
なお、笠ヶ岳の東面の平坦地は播隆にちなみ、播隆平と呼ばれている[1]。
来歴
[編集]天明6年(1786年) - 越中国新川郡河内村(現・富山市大山地区)で一向宗門徒の家に生まれた。
文化元年(1804年) - 19歳で出家。京、大坂で修行した。
文政6年(1823年) - 飛騨から信者とともに笠ヶ岳に登頂した。
文政7年(1824年) - 笠ヶ岳4回目の登頂で山頂に銅製の仏像を安置した。対峙する槍ヶ岳への登山を決意。
文政9年(1826年) - 信濃の玄向寺立禅和尚の仲介で安曇郡小倉村(現・安曇野市三郷地区)に来て村役人中田九左衛門宅に宿泊、槍ヶ岳登山の志を告げた。賛同を得て、九左衛門の女婿で山に詳しい中田又重郎に案内してもらい、大滝山、蝶ヶ岳を経由して上高地に入り、梓川を遡って槍沢の岩屋を根拠とし槍の肩付近まで登った。この時は偵察で終わったが、その後2年の間諸国を旅して浄財を集めた。
文政11年(1828年)7月20日 (旧暦) - 槍ヶ岳に初登頂[2]。厨子を設置し、阿弥陀如来・観世音菩薩・文殊菩薩の三尊像を安置した。
自身の登頂のみでは満足せず、多くの人が山頂まで登れるようにするため、その後何度も槍ヶ岳に登り、その槍の穂の難所に大綱を掛け、また、より頑丈な鉄鎖を掛けるよう尽力した。鉄鎖を掛ける計画をした時にはたまたま天保の大飢饉があって一部の村人はこの計画のせいにして計画実行を禁止されたが、その後また豊作の年が来て再開された。
晩年は、美濃可児郡兼山の浄音寺に居て布教活動を行い、槍ヶ岳登山をしていたが、五回目の登山の時に病に倒れた。
天保11年(1840年) - 美濃国太田(現・岐阜県美濃加茂市)の脇本陣の林市左衛門宅でその生涯を閉じた。美濃加茂市の祐泉寺には墓と、「世の人の 恐れ憚る槍の穂も やがて登らん われ始めて」という歌碑がある。
脚注
[編集]- ^ “地図閲覧サービス「播隆平」”. 国土地理院. 2013年9月30日閲覧。
- ^ 穂苅康治「槍ヶ岳」日本山岳会編著『改訂 新日本山岳誌』ナカニシヤ出版、2016年5月4日、ISBN 978-4-7795-0995-7、945ページ。
参考文献
[編集]- 『槍ヶ岳開山 播隆』穂苅三寿雄 穂刈貞雄 大修館書店 ISBN 4469290769
- 『槍ヶ岳開山』新田次郎 文藝春秋 ISBN 4163010602
- 深田久弥『日本百名山』朝日新聞社、1982年7月。ISBN 4-02-260871-4。
- 『岐阜県百寺』 祐泉寺 p148~p149 郷土出版社 1987年