摩利支天塚古墳
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摩利支天塚古墳 | |
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墳丘(右に前方部、左奥に後円部) | |
所在地 | 栃木県小山市大字飯塚 |
位置 | 北緯36度22分20.39秒 東経139度48分21.31秒 / 北緯36.3723306度 東経139.8059194度座標: 北緯36度22分20.39秒 東経139度48分21.31秒 / 北緯36.3723306度 東経139.8059194度 |
形状 | 前方後円墳(剣菱型) |
規模 | 墳丘長117m |
埋葬施設 | 不明 |
出土品 | 円筒埴輪 |
築造時期 | 5世紀末 |
被葬者 | 不明 |
史跡 | 国の史跡「摩利支天塚古墳」 |
特記事項 | 栃木県第3位の規模 |
摩利支天塚古墳(まりしてんづかこふん)は、栃木県小山市飯塚にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
栃木県では第3位の規模の古墳で[1]、5世紀末(古墳時代中期)の築造とされる。
概要
[編集]栃木県南部、思川・姿川に挟まれた台地上に築かれた古墳である。古墳は前方部を南西に向ける。墳丘は自然の微高地を利用して築かれており、墳丘上には円筒埴輪が列をなして存在している[2]。築造時期については、古墳の形状や出土埴輪から5世紀末とされる[1]。
本古墳の北方には同じく大規模古墳である琵琶塚古墳があり、ともに下毛野地域を代表する首長墓とされる[3]。両古墳築造後も、思川・姿川間の台地の北方では「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が営まれていった[3]。
古墳域は1978年(昭和53年)7月21日に国の史跡に指定され、2002年(平成14年)9月20日に史跡範囲が追加指定された[4]。
墳丘
[編集]墳丘の規模は次の通り[5]。
- 墳丘長:約117メートル
- 後円部 - 2段築成。
- 直径:約70メートル
- 高さ:約10メートル
- 前方部 - 2段築成。中央が尖る剣菱形。
- 幅:約75メートル
- 高さ:約7メートル
墳丘の周りには幅約20メートルの周堀が巡らされ、一部は二重である[1]。
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後円部墳頂の摩利支天社
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後円部墳丘
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前方部から後円部を望む
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後円部から前方部を望む
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前方部入り口
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円筒埴輪
国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館展示。
文化財
[編集]国の史跡
[編集]- 摩利支天塚古墳 - 1978年(昭和53年)7月21日指定、2002年(平成14年)9月20日に史跡範囲の追加指定[6]。
周辺の古墳
[編集]思川・姿川間の台地上には6世紀から7世紀にかけて多数の大規模古墳が築造されており、これらは当地の歴代在地首長墓とされる[7]。主な古墳には次のものがある。
- 琵琶塚古墳 (栃木県小山市大字飯塚、北緯36度22分30.88秒 東経139度48分25.67秒)
- 6世紀始めの築造、墳丘長123メートルで県内第2位[8]。
- 吾妻古墳 (栃木県栃木市大光寺町吾妻・下都賀郡壬生町藤井吾妻原、北緯36度24分15.16秒 東経139度48分41.13秒)
- 6世紀後半の築造、墳丘長127.85メートルで県内第1位[9]。
なお、律令制下に入っても当地一帯は下毛野国(のち下野国)の中心部をなしており、付近には下野国府・下野国分寺が営まれた。
関連施設
[編集]- 国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館(小山市飯塚) - 摩利支天塚古墳の出土品等を保管・展示。
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 『環境整備事業に伴う摩利支天塚古墳発掘調査概報(小山市文化財調査報告書 第10集)』小山市教育委員会、1981年。
- 『摩利支天塚古墳 -環境整備事業に伴う確認調査報告書-(小山市文化財調査報告書 第14集)』小山市教育委員会、1983年。
- 『栃木県小山市 摩利支天塚古墳の測量・GPR調査(早稲田大学東アジア都城・シルクロード考古学研究所 デジタル調査概報 第1冊)』早稲田大学東アジア都城・シルクロード考古学研究所、2020年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 『国史跡摩利支天塚古墳 - 史跡整備事業に伴う発掘調査概要報告1-(小山市文化財調査報告書 第106集)』栃木県小山市、2021年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 摩利支天塚古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 摩利支天塚古墳 - 文化遺産オンライン
- 摩利支天塚古墳 - 栃木県教育委員会事務局文化財課「とちぎの文化財」
- 琵琶塚古墳・摩利支天塚古墳 - 小山市観光協会