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持永浅治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

持永 浅治(淺治、もちなが あさじ、1880年明治13年)5月8日[1][2] - 1956年昭和31年)3月26日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

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佐賀県出身[1][2][3]。持永房種の三男として生まれる[1]。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業し[2]、同年11月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる[1][4]

1907年(明治40年)12月、歩兵中尉に昇進し、1913年(大正2年)7月、兵科憲兵科へ転科し憲兵中尉となる[1]。1914年(大正3年)4月、憲兵大尉、1920年(大正9年)8月、憲兵少佐に進み東京憲兵分隊長に就任[1]。1922年(大正11年)8月、弘前憲兵隊長に就任[1]。以後、江東憲兵分隊長、姫路憲兵隊長を務め、1923年(大正12年)麹町憲兵分隊長(9月1日付け、甘粕正彦 憲兵大尉 兼務任命)[5]1924年(大正13年)8月、憲兵中佐に昇進[1]。1926年(大正15年)3月、羅南憲兵隊長、宇都宮憲兵隊長を歴任し、1929年(昭和4年)8月、憲兵大佐に進んだ[1][3]

1930年(昭和5年)3月、名古屋憲兵隊長に就任[1][3]。1932年(昭和7年)6月、東京憲兵隊長に転じ、1934年(昭和9年)3月、陸軍少将に進級[1][2][3]。1935年(昭和10年)3月、朝鮮憲兵隊司令官に就任し、1936年(昭和11年)8月に待命となり、同月、 予備役に編入された[1][2][3]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

栄典

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』722頁では4月7日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸海軍総合事典』第2版、158頁。
  2. ^ a b c d e 『日本陸軍将官辞典』722頁。
  3. ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』213頁。
  4. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』205、213頁。
  5. ^ 『甘粕正彦 乱心の曠野』株式会社 新潮社、2010年11月1日、68-69頁。 
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」85頁。
  7. ^ 『官報』第6441号「叙任及辞令」1904年12月17日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。