持明院基久
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天正12年(1584年) |
死没 | 慶長20年5月7日(1615年6月3日) |
官位 | 従四位上、左近衛権中将 |
主君 | 豊臣秀頼 |
氏族 | 正親町家→持明院家 |
父母 | 父:正親町季秀、養父:持明院基孝 |
兄弟 | 正親町季康、正親町季俊、裏辻季福、基久、養兄弟:基子 |
子 | 基征、河鰭基秀[1]、富小路頼直[2]、持明院基定室 |
持明院 基久(じみょういん もとひさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公家。官位は従四位上・左近衛権中将。
経歴
[編集]権大納言・正親町季秀の子として誕生。権中納言・持明院基孝の養子となる。養妹に基子[3]がいる。
公家の身分でありながら、子・基征と共に大坂の陣に参加し大坂城に入城し、最終決戦の天王寺・岡山の戦いで戦死した。また一説には落ち延びたが同年5月28日に没したともいわれている。
高家旗本・大沢基宿の次男・基定が基久の娘の婿となり、名跡を継ぐことを許された。