拓跋遵
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拓跋 遵(たくばつ じゅん、生年不詳 - 407年)は、北魏の皇族。常山王。小字は勃兜、または伏六兜[1]。唐の詩人元結、金の官僚元好問の遠祖にあたる。
経歴
[編集]拓跋什翼犍の子の拓跋寿鳩の子として生まれた。道武帝の初年、略陽公の爵位を受けた。登国10年(395年)、参合陂の戦いにおいて、別軍700騎を率いて後燕軍の帰路をさえぎり、北魏の戦勝に貢献した。皇始2年(397年)、撫軍大将軍として中山を攻撃した。中山を平定すると、尚書左僕射に任じられ、侍中の位を加えられ、勃海郡の合口を領知した。天興元年(398年)1月、博陵郡と勃海郡で反乱が起こると、拓跋遵は反乱の討伐にあたった。3月、衛王拓跋儀に代わって中山に駐屯した。4月、常山王に封じられた。天興2年(399年)、高車に対する征討に参加し、東道から長川に進出した。天興4年(401年)12月、5万の兵を率いて破多蘭部の没弈干を攻撃した。天興5年(402年)2月、安定郡高平鎮に進軍し、没弈干を追撃して隴西郡瓦亭まで到達したが、捕捉できなかった。天賜4年(407年)5月、酒に酔って太原公主に無礼を働き、罪を問われて死を賜った。庶人の礼で葬られた。
子に拓跋素があった。
脚注
[編集]- ^ 『大唐西市博物館藏墓誌』頁16.