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打越光種

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
打越光種
時代 江戸時代前期
生誕 不明
死没 寛文10年2月15日1670年4月4日
別名 次右衛門[1]
戒名 常心[1]
墓所 丸山長泉寺[1]
幕府 江戸幕府書院番
主君 徳川秀忠家光
氏族 打越氏
父母 父:打越光隆[1]
兄弟 光久光種[1]
娘(打越光業妻)、娘(内藤章政妻)
養子:光業鵜殿長直四男)[1]
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打越 光種(うていち みつたね)は、江戸時代前期の武士徳川氏家臣

経歴・人物

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寛永6年12月27日1630年2月9日徳川秀忠に拝謁する[1]。のち家光に近侍し、寛永11年(1634年上洛に従った[1]。同年、兄の光久が死亡し、本家は無嗣断絶となった。

光種は食禄300俵を賜い直参旗本として書院番となり、のちさらに200俵を加増された[1]。のち武蔵国北足立郡大久保村・神田村にて500石の知行地を与えられる[2]。4代下った光輪の代より「うちこし」を名乗った[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 寛政重修諸家譜』巻第二百五
  2. ^ 浦和市総務部市史編さん室 編『浦和市史 通史編 2』(1988)