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手這坂の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

手這坂の戦い(てばいざかのたたかい)とは小田氏治と、太田資正梶原政景真壁久幹らとの戦いである。

大田資正は(永禄7年)1564年の岩付城の戦いで、後北条氏と結ぶ我が子、嫡男の太田氏資岩付城を追われ、次男梶原政景とともに佐竹義重のもとに落ち延びていたのであった。同年の小田城の戦いで、小田氏治を小田領から追い払った上杉輝虎に、氏治領の片野城を資正が、柿岡城を政景が与えられていた。

旧領回復をはかる氏治は、(永禄12年)1569年11月23日に、資正がこもる片野城を攻め取らんと小田城から出陣。これに対し、資正と政景親子は佐竹氏方の真壁氏幹らの加勢を得て、筑波山東の手這坂で、小田軍を迎撃した。この戦いで小田一門の岡見治資岡見義綱が討ち死にし、小田軍は総崩れとなり、太田軍の勝利となった。

氏治は小田城で再起を図ろうとしたが、退却路を抑えられており、家臣の菅谷政貞を頼り、常陸土浦城に落ち延びた。翌24日に佐竹方が小田城を落とすと、佐竹義重により、資正は小田城を与えられた。この後小田氏治は幾度となく小田城奪還を目指すが、その願いは叶うことがなかった。[1]

脚注

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  1. ^ 小和田泰経 著、大紀元社編集部 編『戦国合戦史事典』碧水社、2010年4月16日、147頁。ISBN 9784775308011