房総沖地震
房総沖地震(ぼうそうおきじしん)とは、日本の千葉県の房総半島東方沖、太平洋の地下を震源とする地震の総称。
概要
[編集]房総半島の東方沖は北アメリカプレートと太平洋プレートの境界域である日本海溝の南端部に当たる。この地域では日本海溝付近を震源とする海溝型地震、北アメリカプレート内部における大陸プレート内地震、太平洋プレート内部における海洋プレート内地震が発生する可能性がある。また、この付近では北米プレートに対してフィリピン海プレートも沈み込んでいるため、フィリピン海プレート内部におけるスラブ内地震(海洋プレート内地震の一種)が発生する可能性もある。
なお、房総半島の九十九里浜付近や銚子市付近を震源とする千葉県東方沖地震や相模トラフに起因する房総半島南方沖の地震とは発生地域が異なり区別される。
2012年5月、産業技術総合研究所によれば発生間隔は約400年とする研究結果が報道された[1]。
主な地震
[編集]慶長地震
[編集]1605年2月3日(慶長9年12月16日)にマグニチュード (M) 8前後の慶長地震が発生した。震源については諸説あり、大森房吉は房総沖としているが、今村明恒は東海・南海道沖(南海トラフ)としている[2]。地震動による被害は少なく津波による被害の記録が多く残る。
延宝房総沖地震
[編集]1677年11月4日(延宝5年10月9日)に発生した地震。地震の規模はM8.0[3]。「延宝地震」とも呼ばれる。
揺れは顕著でなかったが、千葉県、茨城県、福島県の沿岸部に大津波が襲来した[4]。被害は流潰家1893軒、死者数569人とされる[5]ほか、陸前、紀伊、八丈島、青ヶ島にも津波記録が残っている[6]。今村明恒の研究によれば、震央は磐城沖の東経141.5°北緯36.6°付近としているが、武者金吉は東経141.7°北緯37.0°付近としている[7]。
1909年房総沖地震
[編集]1909年(明治42年)3月13日の8時19分にM6.5、23時29分にM7.5の地震が発生した[8]。
1953年房総沖地震
[編集]1953年(昭和28年)11月26日2時49分に発生した地震。震源の位置は、北緯34度9分24秒 東経141度24分12秒、規模はM7.4[3] (Mw 7.9)。銚子付近で2-3mの津波を観測。この地震により、現行の「大津波警報」に相当する「津波警報(大津波)」が初めて発令された[9][10]。
この地震に先行し茨城県南西部から千葉県中部にかけての地域では地震活動の低下が生じ、震源の周辺でも5年前の1948年頃から地震活動の低下が生じていた[11]。
地震調査研究推進本部はこの地震はプレート内の正断層型の地震[12]としている。
1984年房総半島南東沖
[編集]1984年(昭和59年)9月19日2時3分頃、房総半島南東約200km沖合の海溝三重点付近で発生したM6.6の地震。南関東を中心に広範囲で有感となり、館山、三宅島、八丈島で震度4を観測した。
その他
[編集]2021年9月2日、西暦800年〜1300年頃のものと思われる津波堆積物が新たに九十九里浜沖で発見された。上述の地震以外の未知の巨大地震によるものと思われ、マグニチュードは8.5前後と推測される。津波堆積物は海岸から3.5kmほど内陸まで到達していたという[13] [14]。
東北地方太平洋沖地震との関係
[編集]2011年(平成23年)3月11日に三陸沖で東北地方太平洋沖地震 (Mw9.0) が発生した。この大地震の震源から南北へ連鎖的に地殻の破壊が進んでいったが、北アメリカプレートの下に沈み込んだフィリピン海プレートの北東端が地殻破壊の南下を食い止め、房総沖の北隣の茨城県沖で止まった[15]。
日本政府の地震調査委員会は同年4月11日の会合で、房総沖等の海域でもM7からM8程度の地震が誘発される可能性があるとの見解を示した[16]。
脚注
[編集]- ^ 房総沖で未知のM8級地震、400年周期の可能性 産総研 日本経済新聞 電子版
- ^ 羽鳥徳太郎、「明応7年・慶長9年の房総および東海南海道大津波の波源」 東京大学地震研究所彙報. 第50冊第2号, 1976.1.30, pp. 171-185
- ^ a b 参考資料 (PDF) - 千葉県津波避難計画策定指針/千葉県
- ^ 延宝房総沖地震津波の千葉県沿岸~福島県沿岸での痕跡高調査 (PDF) - 歴史地震研究会〔歴史地震・第22号(2007) 目次〕
- ^ 1677 年延宝房総沖津波の波高偏差 (PDF) - 歴史地震研究会〔歴史地震・第19号(2003) 目次〕
- ^ 神田茂、「延宝5年10月9日の津浪地震と房総沖を震央とする大地震」 地震 第2輯 1962年 15巻 2号 p.143-145, doi:10.4294/zisin1948.15.2_143
- ^ 武者金吉 『日本地震史料』付録「本邦大地震震央分布図解説」 毎日新聞社、1951年
- ^ 宇津徳治、「日本付近のM6.0以上の地震および被害地震の表1885年~1980年(訂正と追加)」 東京大學地震研究所彙報 1986年 60巻 4号 p.639-642, hdl:2261/12956
- ^ 『産経新聞』2010年3月1日東京朝刊第一社会面「大津波警報 震源近くで被害甚大」(産経新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』2024年1月5日東京朝刊第二総合面2頁「時時刻刻 揺れ直後 強い津波 珠洲・能登」「大津波警報6回目 仕組みは パターン10万通り計算 予想高さ3メートル超で発表「解除後も地震警戒を」」(朝日新聞東京本社 大山綾)
- ^ 吉田明夫、高山博之:1953年房総沖地震及び1972年八丈島東方沖地震前後の広域地震活動の変化 地學雜誌 Vol.103 (1994) No.6 P696-705, doi:10.5026/jgeography.103.6_696
- ^ 三陸沖北部から房総沖の海溝寄り 地震調査研究推進本部
- ^ “千葉 九十九里浜に1000年前の巨大津波の痕跡 未知の巨大地震か”. NHK. (2021年9月3日) 2021年9月3日閲覧。
- ^ “千年前、房総沖でM8級地震か 未知の大津波の痕跡”. 日本経済新聞. (2021年9月3日) 2021年9月3日閲覧。
- ^ “地殻の破壊、茨城県沖で止まった…その理由は?”. 読売新聞社. (2011年3月24日) 2011年4月12日閲覧。
- ^ “地震:長期予測見直し…「連動型」も検討 調査委”. 毎日新聞社. (2011年4月11日) 2011年4月12日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 慶長九年十二月十六日 (1605.2. 3) の津波の房総における被害の検証 歴史地震 第20 号(2005) 133-144 頁 (PDF)