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房彦藻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

房 彦藻(ぼう げんそう、生年不詳 - 618年)は、中国の官吏。本貫斉郡(現在の山東省)。

隋末群雄の李密の謀臣となる。軍を指揮して各地を平定し、河南の支配確立に大いに貢献した。李密が盟主となる以前から彼のために働き、李密の片腕とも言うべき人物であった[1]

生涯

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清河房氏の出自とみられ、房玄齢の父の兄弟、あるいは父の従兄弟といわれる[2]

梁郡宋城県の県尉をつとめていた。大業9年(613年)の楊玄感の反乱に参加し、反乱が失敗に終わると名を変えて逃亡した。その際に李密と出会い、彼とともに各地の反乱勢力を説いてまわり、豪傑数百人を得た。彼らを従え、李密が身を寄せている翟譲の陣営に加わると、翟譲は李密が人望を得ていることを覚ったという[3][4]

大業13年(617年)2月、李密が政権を樹立すると左長史となった。安陸汝南淮安済陽を攻略し、これにより河南郡の多くの県が支配下に入った[5]

義寧元年(617年)11月、汝南を破った際、得た財宝をすべて李密に献上して翟譲には贈らなかった。翟譲は房彦藻をなじり、房彦藻は恐れてこの状況を李密に知らせた。翟譲を排除するように鄭頲とともに説き伏せ、李密はためらったものの遂には説得に応じて翟譲を殺した[6]

単雄信の去就が軽はずみであるとして彼の排除も勧めたが、李密は聞かなかった。のちに李密が王世充に敗れると単雄信は王世充に降った[7]

武徳元年(618年)2月、各地を慰撫して招致をする任に就き、河北の竇建德のもとへ赴いたが失敗に終わった。帰路の途上、汲郡まで来た所で賊の首領の王德仁によって殺害された。5月、李密は徐世勣に王德仁を討伐させ、王德仁は李淵のもとへ逃れた[8]

脚注

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  1. ^ 山下 2003, p. 184-185.
  2. ^ 山下 2003, p. 186-187.
  3. ^ 『資治通鑑』巻183大業12年(616年)  (中国語). ウィキソースより。
  4. ^ 山下 2003, p. 185.
  5. ^ 『資治通鑑』巻183義寧元年(617年)  (中国語). ウィキソースより。
  6. ^ 『資治通鑑』巻184義寧元年(617年)  (中国語). ウィキソースより。
  7. ^ 『資治通鑑』巻186武德元年(618年)  (中国語). ウィキソースより。
  8. ^ 『資治通鑑』巻185武德元年(618年)  (中国語). ウィキソースより。

参考文献

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関連項目

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