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戸次親良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
戸次親良/立花親良
時代 戦国時代
生誕 永禄8年(1565年
死没 寛永20年8月21日1643年10月3日
改名 戸次親良 → 津留原親良 → 山田親良
別名 通称:勝兵衛
戒名 泥洹院殿功誉宗徳親良居士
主君 大友宗麟義統立花宗茂加藤清正高橋元種立花宗茂忠茂
氏族 戸次氏立花氏
父母 父:戸次鎮秀、母:吉弘鑑理の女
兄弟 統貞統秀、親良、志賀鎮隆室、問註所統景
正室:清田鎮忠の妹、継室:三池鎮実女、後室:宣祖の官女[注釈 1]
親貞親実親房
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戸次 親良立花 親良(べっき ちかよし/たちばな ちかよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大友氏立花氏の家臣、柳河藩重臣。戸次鎮秀の子。

生涯

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永禄8年(1565年)、豊後国大友氏庶流の戸次氏の一族である戸次鎮秀の子として誕生。

はじめ大友宗麟義統親子に仕え、朝鮮との貿易に携わる。天正15年(1587年)、親族の立花宗茂筑後柳川13万石の領主となると、義統を見限りこれに仕え300石を与えられる。

文禄元年(1592年)より朝鮮出兵に出陣する。特に島井宗室神屋宗湛朝鮮王朝らと親交があり立花軍の被害を最小限に食い止める。慶長4年(1599年)、伏見立花屋敷の留守居役家老となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、かねてより親交のあった徳川家康への味方を宗茂に進言するが受け入れらなかった。

戦後、主君・宗茂と共に加藤清正の下にあったが、後に高橋元種の招きに応じる。親良自身は日本・朝鮮の国交回復に尽力する傍ら、立花氏再興を江戸幕府に嘆願する。元和6年(1620年)に立花宗茂が旧領を回復し柳河藩主になると、一族合わせて1500石を与えられ、再び家老となる。

寛永20年(1643年)、79歳で死去。

参考文献

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  • 『舊柳川藩志・下巻』(柳川山門三池教育會、渡辺村男、1957年:247頁)
  • 『豊後国稙田荘・津守荘 (勾保)・判田郷・戸次荘・丹生津留畠地・高田荘・毛井村・大佐井郷・小佐井郷史料・第5巻・第2部』(別府大学付属図書館、渡辺澄夫、1990年:336頁)
  • 『柳川藩立花家中列伝』(柳川ふるさと塾、原達郎、2017年:59頁)
  • 『福岡県史・近世史料編・柳川藩初期・下巻』(西日本文化協会、1986年:760頁)

脚注

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注釈

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  1. ^ 立花家臣の戸次親良の後妻は朝鮮国王宣祖の官女、立花親房を生む。彼女の墓は柳川福厳寺にあり「花岳院殿覚誉慶園大姉」と刻まれている[1][2]

出典

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  1. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(九四)朝鮮役と柳河の文物 六・朝鮮婦人 226頁
  2. ^ 原 達郎『柳川藩 立花家中列伝』61頁