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戸次親繁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

戸次 親繁(べっき ちかしげ、生年不詳 - 永禄10年9月3日1567年10月5日))は、戦国時代武将豊後国大友氏の家臣。通称は刑部少輔。実父は戸次親延、養父は戸次親就(刑部少輔)。兄弟姉妹に戸次親宗(治部少輔)、小野鎮幸の妻(立花道雪養女)、沓掛平左衛門鎮昌の妻。妻は戸次親家の娘(臼杵鑑速の養女)。子は戸次鎮時(刑部少輔)、立花鎮実(右衛門太夫)、立花鑑貞(弾正忠)。

生涯

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豊後大友氏の家臣・戸次親延の子として誕生。

天文20年(1551年)、肥前国小坂の戦いにおいて父・親延が戦死すると[1]家督は叔父の戸次親就が継ぎ、親繁は親就の養子となり[2]、後にその家督を継いだ。

大友軍の将として弟の親宗と共に戸次鑑連に従って、永禄年間の門司合戦や高橋鑑種の居城・宝満山城攻略戦などに参戦した。

永禄10年9月3日(1567年10月5日)に休松の戦いにおいて休松にて戦死する。親繁の死後、戸次鑑連(後の立花道雪)が立花氏の名跡を相続すると。長男の鎮時は戸次鎮連の家臣として藤北(現在の大分県豊後大野市)に残留し、立花鎮実(右衛門太夫)、立花鑑貞(弾正忠)は立花氏家臣となる。

脚注

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  1. ^ 柳河藩享保八年藩士系図・下」の立花八次郎系譜。同書の立花小七郎系譜では天文19年(1550年)戦死
  2. ^ 「柳河藩享保八年藩士系図・下」の立花八次郎系譜の親就の記述に『兄親延之嫡男親繁ヲ為養子家ヲ継』とある。

参考文献

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