八島 (戦艦)
八島 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | アームストロング社エルジック造船所(Elswick yard)[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 |
戦艦[2] 一等戦艦(1898年3月21日-)[3] |
建造費 | 10,508,817.959円[4] |
母港 | 呉[5] |
艦歴 | |
計画 | 1893年(明治26年)成立予算[6] |
起工 | 1894年12月28日[2] |
進水 | 1896年2月28日[2] |
竣工 | 1897年9月9日[2] |
最期 | 1904年5月15日沈没 |
除籍 | 1905年6月15日[7] |
要目 | |
排水量 |
12,517英トン[2][8] または 12,320英トン[9] |
全長 | 412 ft 0 in (125.58 m)[10] |
水線長 | 390 ft 0 in (118.87 m)[10] |
垂線間長 |
374 ft 0 in (114.00 m)[10] または372 ft 0 in (113.39 m)[9] |
水線幅 |
73 ft 9 in (22.48 m)[10] または72 ft 8+3⁄16 in (22.15 m)[9] |
吃水 |
26 ft 6 in (8.08 m)[10] または26 ft 3 in (8.00 m)[9] |
ボイラー | 円缶 10基[9] |
主機 | 直立3気筒3段レシプロ[11] 2基[9] |
推進 | 2軸 x 120rpm[9] |
出力 |
13,600馬力[2] または13,500馬力[9] |
速力 | 18.25ノット[9] |
燃料 | 石炭:1,200仏トン[12][8] |
航続距離 | 7,000カイリ / 10ノット[9] |
乗員 |
計画乗員:741名[9] 竣工時定員:577名[13] |
兵装 |
40口径12インチ連装砲 2基[9] 6インチ単装砲 10基[9] 47mm単装砲 24基[9] 45cm魚雷発射管 5門(水上1門、水中4門)[9] |
装甲 |
複合装甲[14](またはハーベイ鋼[11]) 舷側:14-18インチ[14](457mm) 甲板:最大4インチ(102mm)[要出典] 砲塔:9-14インチ[14] 砲郭:2-6インチ[14] 司令塔:14インチ[14](356mm) |
その他 | 信号符字:GQJH[15][16] |
八島(やしま)は日本海軍の戦艦[17][3]。 富士型戦艦の2番艦。 艦名は日本(日本列島)の美称の一つ[2]。 日露戦争における旅順港閉塞作戦に従事中の1904年(明治37年)5月15日、ロシア海軍が敷設した機雷により戦没[18]。
概要
[編集]姉妹艦「富士」と同じくして計画された、日本海軍で初めての近代的戦艦の1隻[19]。
艦歴
[編集]日露戦争まで
[編集]1891年(明治24年)から1892年(明治25年)にわたって軍艦建造予算が議会で否決され続けてきたが、明治天皇が自らの宮中費を節約する建艦詔勅を出して、ようやく議会を通過した。英ニューカッスルにあるアームストロング社で建造される[2]。1894年(明治27年)12月28日、起工[2]。1895年(明治28年)8月18日、日本海軍は建造中の甲号甲鉄戦艦を「富士」、乙号甲鉄戦艦(本艦)を「八島」、甲号報知艦を「宮古」と命名する[20][17]。 1896年(明治29年)2月28日、「八島」は進水[2]。10月29日、本籍を呉鎮守府と定められる[5]。1897年(明治30年)9月9日、竣工、領収[2]。 9月15日、「八島」はイギリスを出発した[21]。11月30日、横須賀に到着する[2][22]。
1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、1万トン以上の戦艦を一等戦艦と定義した[23]。該当する4隻(富士、八島、朝日、敷島)が一等戦艦に類別された[24][3]。 1899年(明治32年)12月25日、沼津御用邸滞在中の明治天皇皇太子(のち大正天皇)は、葉山御用邸へ汽車で移動する予定を変更し17時に「八島」に乗艦する[25](供奉艦は巡洋艦千歳)[26][27]。12月26日、2隻(八島《御召艦》、千歳《供奉艦》)は横須賀に到着した[28]。
1903年(明治36年)12月28日、常備艦隊が解隊され、戦艦を中心とする第一艦隊と巡洋艦が主体の第二艦隊が設置される。第一・第二艦隊で連合艦隊(司令長官:東郷平八郎海軍中将)を構成した。八島は第一艦隊隷下の第一戦隊(戦艦〈三笠、朝日、富士、八島、敷島、初瀬〉、通報艦〈宮古〉)に配属される[29]。
日露戦争
[編集]「八島」竣工後7年目に日露戦争が勃発し、旅順口攻撃や旅順港閉塞作戦に参加する。 1904年(明治37年)5月15日、旅順港閉鎖隊(初瀬、八島、敷島、笠置、龍田)等は第一戦隊司令官梨羽時起中将(初瀬座乗)の指揮下で旅順港沖合を航行中、老鉄山沖で2隻(初瀬、八島)はロシア海軍(敷設艦アムール)が敷設した機雷に触雷した[30][31]。 「八島」における触雷は午前11時10分頃で、最初に触雷した「初瀬」救援のため停止してボートを降ろしている最中だった[32]。爆発は「八島」の右舷後部ボイラー室で起こり、その1分後に水中発射管室で爆発、艦内に浸水し右に大きく傾斜した[33]。 日本艦隊は触雷原因が機雷か潜水艦によるものか判断できず、混乱した[34][35]。 当時、ロシア海軍は既に潜水艦を導入しており、ウラジオストックにもドイツ製小型潜水艦を1隻配備(シベリア鉄道による陸送)していたという経緯がある[36]。 さらに旅順要塞よりロシア海軍の駆逐艦や水雷艇が出撃してきたため[37]、救援各艦(笠置、龍田、明石、千代田、秋津洲、大島、赤城、宇治、高砂)等は、その対処にも追われた[33][38][35]。
「八島」では応急処置の後、自力航行により擱座を試みたが、刻々傾斜が増したため投錨する[38]。午後5時40分、曳航も断念されるに至った[39][40]。 坂本(八島艦長)は夜間になってからの退避で混乱する事を懸念し、総員退去を決定する[41]。午後6時30分、軍艦旗を降下し総員退艦[39][40]。夜8時半過ぎに転覆、沈没した。乗組員は巡洋艦「高砂」[41][33]や笠置・須磨・龍田に収容された[40]。 同日に戦艦「初瀬」も沈没しており、日本海軍は当時保有していた主力戦艦6隻(富士、八島、敷島、朝日、初瀬、三笠)のうちの2隻を一挙に失うこととなった[42][43]。 また同日未明に巡洋艦「吉野」が沈没[44](味方艦春日との衝突による)[45]、初瀬生存者(梨羽司令官を含む)・八島生存者を収容していた「龍田」も座礁、5月15日は日本海軍厄災の日となった[46][47]。
影響
[編集]日本海軍の保有戦艦6隻(富士、八島、敷島、初瀬、朝日、三笠)のうち戦艦2隻(八島、初瀬)の同時喪失は、各方面に衝撃を与えた[48][49]。海軍は艦艇緊急補充(装甲巡洋艦の国産化と潜水艇の建造)を提議する[49]。この経緯により完成した装甲巡洋艦が筑波型巡洋戦艦2隻(筑波、生駒)[50]、潜水艇がエレクトリック・ボート社より輸入したホランド型潜水艇である[49]。
日本海軍は国民の動揺を恐れ、戦死者が無く、ロシア側にもこの事実が知られていなかった事から、日本海海戦の大戦果が確認できるまで八島沈没の事実を秘匿した[18][51]。坂本一大佐(八島艦長)によれば、代艦としてイギリス戦艦「ゴライアス」を購入する噂もあったが、実現しなかったという[51]。八島乗組員は坂本大佐指揮下のまま小型艇に配属され、引き続き旅順港閉塞作戦に従事した[51]。
1905年(明治38年)6月1日、日本海軍は本艦以下6隻(八島、暁、大島、速鳥、愛宕、高砂)の喪失を公表する[18]。 同年6月15日、日露戦争で沈没した八島・初瀬・吉野・高砂等は軍艦籍[7]および艦艇類別等級表(軍艦及び水雷艇類別等級表)より除かれた[52][53]。
年表
[編集]- 1894年12月28日 イギリス、アームストロング社エルジック造船所で起工
- 1896年2月28日 進水[54]
- 1897年9月9日 竣工[2]
- 1898年3月21日 一等戦艦に類別[3]。
- 1904年 第1艦隊第1戦隊の4番艦として日露戦争に参加。
- 1905年6月1日 喪失公表[18]
- 6月15日 除籍[7]
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
代 | 氏名 | 在任期間 | 備考 |
---|---|---|---|
0 | 有馬新一 | 1896年7月7日 - 12月11日 | 回航委員長、英国出張 |
1 | 有馬新一 | 1896年12月11日 - 1897年12月27日 | 1897年11月30日英国より帰着 |
2 | 片岡七郎 | 1897年12月27日 - 1898年11月2日 | |
3 | 内田正敏 | 1898年11月2日 - 1899年6月17日 | |
4 | 瓜生外吉 | 1899年6月17日 - 1900年5月21日 | |
欠員 | 1900年5月22日 - 1900年6月17日 | ||
5 | 島崎好忠 | 1900年6月18日 - 1901年7月6日 | |
6 | 丹治寛雄 | 1901年7月6日 - 1902年5月24日 | |
欠員 | 1902年5月25日 - 1902年10月22日 | ||
7 | 岩崎達人 | 1902年10月23日 - 1903年10月27日 | |
8 | 坂本一 | 1903年10月27日 - 1904年8月31日 |
参考文献
[編集]- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X。
- 「海軍軍備沿革」、海軍大臣官房、1921年10月。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
- 財団法人水交会「元海軍大将長谷川清」『帝国海軍提督達の遺稿 上 小柳資料 敗戦後十余年海軍の中枢が語った大東亜戦争への想い』水交会、2010年4月。
- 新人物往来社編『軍談 秋山真之の日露戦争回顧録 黄海海戦と日本海海戦勝利の要因』新人物往来社〈新人物文庫〉、2010年2月。ISBN 978-4-404-03809-8。
- 戸高一成 編『日本海海戦の証言 聯合艦隊将兵が見た日露艦隊決戦』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年3月(原著2012年)。ISBN 978-4-7698-3058-0。
- 豊田穣『旗艦「三笠」の生涯 日本海海戦の花形 数奇な運命』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2016年2月(原著1992年)。ISBN 978-4-7698-2931-7。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- (社)日本造船学会/編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2。
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第2巻 戦艦II』光人社、1989年。ISBN 4-7698-0452-0
- 福井静夫『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語(1)』光人社、1992年。ISBN 4-7698-0607-8
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
- 『官報』
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷)』海軍大臣官房、1939年 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
- 河村貞編「初瀬、吉野の二艦沈没」『日露戦争大本営公報集』立誠堂、1906年1月 。
- 坪谷善四郎編『日露戦役海軍写真集. 第1輯』博文会、1905年9月。
- 藤田定市編『戦袍余薫懐旧録.第2輯』財団有終會、1926年12月 。
- 鳳秀太郎編『日露戰役話集 大戰餘響』博文館、1917年3月 。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『明治28年 達 完/8月』。Ref.C12070035400。
- 『明治30年 公文備考 艦船3止水路巻6/軍艦富士其他艦船へ信号符字点付の件』。Ref.C06091102600。
- 『明治30年 達 完/3月(4)』。Ref.C12070038100。
- 『明治31年 達 完/3月(1)』。Ref.C12070040500。
- 『明治32年 達 完/1月』。Ref.C12070042000。
- 『明治32年12月25日 八島を御召艦に千歳を供奉艦に定め本日午後2時沼津着の見込沼津御発艦は同地着の上定』。Ref.C10126674800。
- 『艦船行動電報明治32年12月分』。Ref.C10100037200。
- 『戦時日誌 明治36.12.28~38.10.14/戦時日誌(1)』。Ref.C12070042000。
- 『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。
- 『記念品の件』。Ref.C04015870600。
- 戦史史料・戦史叢書検索(防衛省防衛研究所)
- 『海軍内令 明治29年分/内令第2号 明治29年4月1日~内令第35号 明治29年12月19日』。
脚注
[編集]- ^ #日本の戦艦(上)2001p.19
- ^ a b c d e f g h i j k l m #幕末以降帝国軍艦写真と史実第54コマ(原本75頁)『八島(やしま) 艦種戰艦 二檣(戰闘檣あり)
艦名考八島は日本國の總稱なり、古事記に伊弉諾命、伊邪那美命御合、生子御淡 道 之穂之狭 別 島 (今の淡路島)次生伊豫之二 名 (今の四國)次生隠岐之三子島、次生筑紫島(今の九州)次生伊岐之島、次生津島、次生佐渡島、次生大 倭 豊 秋津洲 (今の本州)故因此八島先所生、謂大 八島 國 とあり。
艦歴明治30年9月9日英國にて竣工、同年同月15日英國出發、同年11月30日横須賀到着、前記「富士」と姉妹艦なり。同31年3月一等戰艦に列す、第一艦隊第一戰隊として日露戰役に從軍中、同37年5月15日旅順港外に於て敵の機械水雷に觸れ沈没、乗員無事(艦長大佐坂本一)。
―要目― 長372呎/幅74呎/吃水26呎/排水量12,517噸/機關 直立三段膨張2基、圓罐/馬力13,600/速力18/乗組人員741/船材 ハーベイ鋼(甲鐡帶457粍)/兵装 12吋安式砲4/15拇砲10/47粍(速)砲24/發射管5/起工 明治27-12-28/進水 同29-2-28/竣工 同30-9-9/建造所 英國安社』 - ^ a b c d #達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道|軍艦|戰艦|一等|富士、八島、敷島、朝日』
- ^ #海軍軍備沿革p.44、二十六年度起業甲鉄戦艦製造費明細表
- ^ a b #内令29年 画像34『內令第二十七號 軍艦 富士 右本籍ヲ佐世保鎭守府ト定メラル 軍艦 八島 右本籍ヲ吳鎭守府ト定メラル 明治二十九年十月二十九日 海軍大臣 侯爵西郷從道』
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.7
- ^ a b c #達明治38年6月p.7『達第八十二號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 愛宕|呉鎮守府在籍 軍艦 八島/軍艦 高砂|佐世保鎮守府在籍 軍艦 大島|舞鶴鎮守府在籍 逐驅艦 速鳥 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 水雷艇 第六十九號|佐世保鎮守府在籍 水雷艇 第三十四號/水雷艇 第三十五號 右帝國水雷艇籍ヨリ除カル|明治三十八年六月十五日 海軍大臣男爵 山本権兵衛』
- ^ a b #帝国海軍機関史(1975)下巻p.278、戦役従軍艦艇及其の最近高力運転成績。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o #昭和造船史1pp.776-777、附表第2 艦艇要目表
- ^ a b c d e #日本の戦艦(上)2001p.106
- ^ a b #帝国海軍機関史(1975)別冊、「列國製艦一覧表 其ノ一」
- ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.263、戦役中艦艇石炭搭載成績表
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.279、明治29年12月8日内令第33号
- ^ a b c d e #日本の戦艦(上)2001p.218
- ^ #信号符字 画像2『營第七三二号 軍艦富士其他艦舩ヘ信號符字點附ニ付告示方官房第四二三六號ヲ以テ御照會之趣了承右ハ本日第二百十号ヲ以テ告示致候条右様御了知候度致此段及御回答候也 明治廿九年十月十五日 逓信大臣子爵野村靖 海軍大臣侯爵西郷従道殿 官房第四二三六号 案 軍艦富士及八島並ニ呉鎮守府所属汽舩山東丸ヘ信号符字別紙之通點付致候条告示方可然御取計相成度此段及照会候也 明治二十九年十月十日 海軍大臣 逓信大臣宛 (別紙)|信号符字|艦舩名|GQJF|富士 Fuji|GQJH|八島 Yashima|GQJK|山東丸 Santo-Maru|』
- ^ #達明治32年1月 画像7『達第八號 新造及在來艦船ノ信號符字左ノ通 明治三十二年一月十二日 海軍大臣 山本權兵衞 … GQJH 八島 …』
- ^ a b #達明治28年8月p.12『達第七十八號 英國ニ於テ製造中ノ甲號及乙號甲鐡戰艦並ニ呉鎮守府ニ於テ製造中ノ甲號報知艦左ノ通命名セラル 明治二十八年八月十六日 海軍大臣 侯爵西郷從道|甲號甲鐡戰艦
富 士 |乙號甲鐡戰艦八 島 |甲號報知艦宮 古 』 - ^ a b c d 明治38年6月1日官報第6574号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ17-18『○戰報(略)○軍艦八島外五艦ノ遭難 開戰以來發表セシモノヽ外帝國軍艦ノ沈没セシモノ左ノ如シ(海軍省)|一、戰艦八島 右三十七年五月十五日旅順港封鎖ニ從事中敵ノ機械水雷ニ觸レ終ニ沈没ス/二、驅逐艦暁 右三十七年五月十七日夜旅順口封鎖ニ從事中敵ノ機械水雷ニ觸レ沈没ス/三、砲艦大島 右三十七年五月十八日夜陸軍ト共同作戰ノ目的ヲ以テ遼東灣ニ遊弋中僚艦ト衝觸シ沈没ス/四、驅逐艦速鳥 右三十七年九月三日旅順口封鎖ニ從事中敵ノ機械水雷ニ觸レ沈没ス/五、砲艦愛宕 右三十七年十一月六日旅順王封鎖ニ從事中直隷海峡ニ於テ暗礁ニ觸レ沈没ス/六、巡洋艦高砂 右三十七年十二月十二日夜旅順口封鎖ニ從事中敵ノ機械水雷ニ觸レ沈没ス』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実237コマ(原本83頁)『一、最初の甲鐡戰艦「富士」「八島」起工―明治二十七年(一八九四)』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ198番『◎戰艦富士八島及報知艦宮古命名ノ件』
- ^ 明治30年9月18日官報第4266号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○新艦囘航 軍艦八島ハ本月十五日帝國ヘ囘航ノ途ニ就キプリマッスニ向ヒニウカッスルヲ拔錨セリ(海軍省)』
- ^ 明治30年11月30日官報第4325号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○軍艦發箸 軍艦吉野ハ沖縄ヘ、同比叡ハ周防國八代ヘ、同濟遠ハ横須賀ヘ本月二十七日孰モ投錨、同天龍ハ同日安平ヲ經テ基隆ニ向ヒ打狗拔錨、同和泉ハ同日神戸拔錨、昨二十九日横須賀ヘ投錨、同龍田ハ本月二十七日館山投錨一昨二十八日品海ヘ拔錨、同大和ハ兵庫ヘ、同高千穂ハ伊萬里ヘ一昨二十八日孰モ投錨、同天城ハ昨二十九日館山拔錨横須賀ヘ投錨、同八島ハ今三十日横須賀ヘ到着ノ筈ナリ(海軍省)』
- ^ #達明治31年3月(1)pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50番『◎軍艦及水雷艇類別等級』
- ^ 明治32年12月28日官報第4949号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ8『○東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨二十六日静岡縣沼津發汽車ニ召サセラレ神奈川縣葉山御用邸ヘ行啓アラセラルヘキ御豫定ノ處御都合ニヨリ本月二十五日午後五時同所ヨリ直ニ軍艦八島ニテ横須賀軍港ニ御航海一昨二十六日午前十一時三十五分葉山御用邸ニ御安著アラセラレタリ』
- ^ #記念品の件p.3『盃|個|壱|千歳|御紋章三 明治三十二年東宮殿下八島ニ御乗艦沼津ヨリ横須賀迄行啓ノ際供奉ニ服シタル千歳ヘ下賜セラル』
- ^ #明治32年12月艦隊行動電報p.26『十二月二十五日|八島千歳清水発翌日午前九時横須賀着』
- ^ #明治32年12月艦隊行動電報p.27『十二月二十六日|八島千歳横須賀着 九時』
- ^ #36年-38年戦時日誌 画像3『開戰前誌 明治三十六年十二月二十八日(月) 一聯合艦隊左ノ通リ編制セラル |聯合艦隊(司令長官東郷中將)|第一艦隊(長官東郷中將)|第一戰隊|三笠 初瀨 朝日 敷島 富士 八島 宮古|』
- ^ #戦袍余薫懐旧録コマ106『笠置より見たる初瀬八島の遭難(笠置航海長海軍少佐)海軍中将内田虎三郎』
- ^ #日露戦争大本営公報集コマ36(原本51頁)『二、本艦は海軍に在て最大不幸の日にして茲に又最も不幸なる報告を通達するの止むを得ざるに遭遇せり、初瀬、敷島、八島、笠置、竜田は本日午前11頃旅順口沖にて敵を監視中初瀬は敵の水雷に罹り先づ舵機を破られ初瀬より曳船送れの電信に接したるを以て将に之を發送せんとする時更に敷島より初瀬は第二の水雷に罹り沈没せりとの悲報來れりも本職は之を報告するに臨み只遺憾至極と云ふの外なし善後の處置に就ては夫々出來る丈けの手段を盡し災厄を増大せざるに努め居れり當地付近濃霧未だ霽れず(五月十五日午後六時大本營着電)』
- ^ #戦袍余薫懐旧録コマ97-98『八島の遭難(八島艦長海軍大佐)海軍中将坂本一』
- ^ a b c #戦袍余薫懐旧録コマ98(原本154-155頁)
- ^ #戦袍余薫懐旧録コマ102-103(原本162-164頁)
- ^ a b #日露戦争大本営公報集コマ36-37(原本51-52頁)『三、初瀬が敵の水雷に罹りしは老鐡山の南東約十海里の所にして當時同方面には霧なく又其附近に敵の驅逐艦もあらざりしと云ふ此事實より判断するときは敵は其附近に機械水雷を沈置したるか或は又潜水艇を利用したるものならん初瀬は約三十分間を隔て二回の被害にて瞬時に沈没したるも敷島、八島、笠置、龍田等にて梨羽少将中尾大佐以下三百名を救助収容せり初瀬沈没の頃的の驅逐艦十六隻旅順口内より出で來り我を追尾せしが會々其他に來りし明石、千代田、秋津洲、大島、赤城、宇治及高砂は前記諸艦と協力して之を撃退し初瀬生存者の収容を果たすことを得たり以上の報告は混信の爲め文意不明瞭なる無線電信と今朝遭難報告の爲め來し龍田の少尉並に八島の艦載水雷艇指揮官の口頭報告等を綜合して制作したるものなり當地近傍霧未だ霽れず(五月十六日午後四時三十七分大本營着電)』
- ^ 戦史叢書98巻、7頁「列国海軍潜水艦の概況/ロシア」
- ^ 軍談秋山真之 2010, pp. 86–87「八島も機雷にやらる」
- ^ a b #戦袍余薫懐旧録コマ99(原本156-157頁)
- ^ a b #戦袍余薫懐旧録コマ85(原本128-129頁)
- ^ a b c #戦袍余薫懐旧録コマ109『此の時八島の艦影は既に遠く視界外に在つたのであります。曳船の用意をなしながら八島に追尾し、午後五時三十五分頃、遇岩の東北東に於て八島に追及すると、同艦は既に停止して居り、須磨龍田が之を守つて居りましたので、直に八島の右舷に位置すると、總て曳船断念との事で、乗員を収容することになり、笠置須磨龍田の三艦に収容を終りましたのが午後六時三十分頃で、八島は乗員退去に先ち、厳粛に軍艦旗を降しましたが、其の光景は悲壮を極めたものでありました。』
- ^ a b #小柳資料上149『(日露戦争時代)』
- ^ #戦袍余薫懐旧録コマ101『初瀬八島の遭難(敷島艦長海軍大佐)海軍中将寺垣猪三』
- ^ #日露戦争大本営公報集コマ37(原本52-53頁)『五、昨朝濃霧霽れ各隊逐次入港す其報告により初瀬は全く敵の機械水雷に罹りしものなることを確かむることを得たり(五月十八日午後零時四十分大本營着電)』
- ^ 軍談秋山真之 2010, pp. 85–86.
- ^ #日露戦役海軍写真集(1)p.18『軍艦吉野艦長以下士官 嗚呼是れ明治三十七年五月十五日午前一時四十分、山東角の北方海面に於て、濃霧に遭ひ、春日と衝突して沈没したる吉野の艦長以下士官諸氏にして、前方第二列の中央なるは、艦長大佐佐伯誾君なり。また艦と共に沈みぬ。吉野は四千二百二十五噸速力廿五哩の巡洋艦、明治廿五年の進水にて、日進戰役の當時功績最も多かりしに、今や此の災厄に遭ひ、乗組員中救助艇にて収容せられたる者は、機關長以下約九十名、恨は黄海の底よりも深し。』
- ^ #大戦余響コマ28-30(原本35-39頁)『〔十一〕吉野初瀬八島の沈没』
- ^ #戦袍余薫懐旧録コマ86(原本130-131頁)
- ^ 軍談秋山真之 2010, p. 167「三十七年五月十五日の悲報」
- ^ a b c 戦史叢書98巻、2-3頁「ホーランド型潜水艇の採用」
- ^ 軍談秋山真之 2010, p. 168「苦心を重ね、装甲巡洋艦開発」
- ^ a b c #戦袍余薫懐旧録コマ100(原本159頁)『(略)天運とでも申しますか、八島の乗員には一人も負傷したものがありません。此の一事は非常に私を慰めました。當時八島の代りに、英國の戰艦ゴライヤスを買はれるといふ話を耳にしましたから、密かに其の機を待つて居りましたが、遂にそれも實現されず、八島乗員の乗るべき艦がありません。(以下略)』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ52番『明治三十八年六月十五日(達八三)軍艦及水雷艇類別等級別表中軍艦ノ欄内八島、初瀨、吉野、高砂、濟遠、海門、平遠、愛宕、大島、宮古、速鳥ヲ、水雷艇ノ欄内第三十四號、第三十五號、第四十二號、第四十八號、第五十一號、第五十三號、第六十九號ヲ削ル』
- ^ #達明治38年6月p.7『達第八十三號 軍艦及水雷艇類別等級別表中軍艦ノ欄内八島、初瀨、吉野、高砂、濟遠、海門、平遠、愛宕、大島、宮古、速鳥ヲ、水雷艇ノ欄内第三十四號、第三十五號、第四十二號、第四十八號、第五十一號、第五十三號、第六十九號ヲ削ル 明治三十八年六月十五日 海軍大臣男爵 山本権兵衛』
- ^ 明治29年6月14日東京日日新聞「東洋第一の堅艦八島号の進水」『新聞集成明治編年史. 第九卷』 挿絵付 (国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 明治30年12月1日国民新聞「戦艦八島回航」『新聞集成明治編年史. 第九卷』 挿絵付 (国立国会図書館デジタルコレクション)