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成翊世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

成 翊世(せい よくせい、生没年不詳)は、後漢官僚は季明。

経歴

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若くして学問を好み、道術に精通した。平原郡の吏をつとめていたが、太后の鄧綏に政権を返すよう上書して罪に問われた。太后の死後、杜根とともに安帝に召し出され尚書郎に抜擢された。124年延光3年)[1]中常侍の樊豊や安帝の乳母の王聖らが皇太子劉保を誣告して、太子は廃位されて済陰王に落とされた。翊世は上書してその冤罪を訴え、樊豊や王聖らの誣告であることを述べたが、安帝は聞き入れなかった。免官されて本郡に帰された。翌年、済陰王劉保が順帝として即位すると、司空張晧が翊世を召し出し、議郎に推薦したが、翊世は応じなかった。尚書僕射の虞詡がまた上書して翊世を推薦し、召し出して議郎に任じた。後に尚書令左雄や僕射の郭虔が翊世を推挙して尚書とした。

脚注

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  1. ^ 後漢書』安帝紀

伝記資料

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