成田頼直
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成田 頼直(なりた よりなお、宝暦10年(1760年) - 天保4年4月27日(1833年6月14日))は、江戸時代後期の二本松藩藩士。一字名は直、字は伯温、通称は弥義右衛門・又八郎。号は確斎・鶴斎・遊芸堂。隠居後は島友鷗の筆名も用いた。成田頼緩の子。子に成田頼裕。
経歴
[編集]天明8年(1788年)に渋川組代官に任ぜられ、寛政6年(1794年)には郡奉行となる。以降、郡代や城代を務めて300石に加増され、文政5年(1822年)に致仕。後を継いだ頼裕に先立たれる[1]不幸もあったものの、晩年まで執筆活動に努めた[2]。法号は智源院江外友鷗居士[3]。
古典に通じ、文筆を好み、二本松藩の正史・家臣団の系譜である『世臣伝』を担当し、その後も『松藩輿志』・『松藩徴古』・『松藩捜古』などの歴史考証の著作を著し、また代官・郡奉行としての経験から二本松藩の判例集『刑例撮要』を著している[2][4]。また、二本松領にあった城館に考察した『積達館基考』や『吾妻鏡』を考証した『東鑑要目類聚考』、随筆『遊芸堂筆記』を著している。
また、近隣の会津藩・白河藩を中心に各地の学者や文人とも交流を持ち、安部井褧・佐藤一斎・頼山陽・広瀬蒙斎などの親交が知られた他、白河藩主であった松平定信とも交流を持った[3][4]。
脚注
[編集]- ^ 文政8年5月21日(1825年7月6日)に42歳で死去(家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典 5』(新人物往来社 1988年) P452.「成田頼裕」)。
- ^ a b 高塩、2019年、P221-222.
- ^ a b 『国書人名辞典 3』
- ^ a b 『三百藩家臣人名事典 5』
参考文献
[編集]- 家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典 5』(新人物往来社 1988年) P452.
- 市古貞次『国書人名辞典 3』(岩波書店、1996年) P535.
- 小塩博「陸奥国二本松藩の刑事判例集について」藩法研究会 編『幕藩法の諸相-規範・訴訟・家族-』(汲古書院、2019年) ISBN 978-4-7629-4230-3