成清博愛
成清博愛 なりきよ ひろえ | |
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生年月日 | 1864年11月13日 |
出生地 |
日本 筑後国山門郡 (現福岡県みやま市) |
没年月日 | 1916年1月18日(51歳没) |
死没地 | 日本 大分県日出町 |
出身校 | 慶應義塾中退 |
所属政党 |
(九州改進党→) 立憲政友会 |
子女 | 長男・成清信愛 |
選挙区 | 大分県郡部選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1915年3月25日 - 1915年11月22日 |
山門郡会議員 | |
小川村長 | |
小川村会議員 |
成清 博愛(なりきよ ひろえ、1864年11月13日(元治元年10月14日[1])- 1916年(大正5年)1月18日[2][3])は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、福岡県山門郡小川村長。号・的山(てきざん)[4][5]。金山王と称された[5]。
経歴
[編集]筑後国山門郡、のちの福岡県[2]山門郡小川村 [5](瀬高町[4]を経て現みやま市)で生まれた。柳川藩儒者・西田麗川に師事し漢学を修めた[2][5]。1887年(明治20年)慶應義塾に入塾したが[2][5]、1888年(明治21年)病のため中退して帰郷した[4][5]。
1890年(明治23年)小川村会議員に選出され[2][5]、九州改進党の結成に尽力した[4]。政治活動資金を捻出するため炭坑、金山の経営に乗り出したが失敗し財産を失うが[4][5]、小川村長、山門郡会議員、福岡県会議員、瀬高銀行取締役などを務めた[2][3][5][4][6]。
1903年(明治36年)ころに大分県速見郡立石町(現杵築市山香町)の馬上金山の情報を得て[4][5]、翌年に17万円で鉱区権を取得し[4][5]、1910年(明治43年)11月に開坑して排水問題に苦しみながらも、1912年(明治45年)6月、富鉱部に到達して1914年(大正3年)から1922年(大正11年)ころに最盛期を迎えた[5]。また、大分県内、宮崎県、鹿児島県にも鉱区を拡大して金山王と称された[5]。
その他、実業界では大湯鉄道、宇佐参宮鉄道(大分交通宇佐参宮線)、両豊銀行などの設立に参画し監査役、取締役を務め[2][4][5]、佐賀関製錬所(現パンパシフィック・カッパー佐賀関製錬所)の誘致に尽力するなど[4][5]、地域の経済発展に貢献した[4][5]。
1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙で大分県郡部から立憲政友会所属で当選した[3][5][7]。その際、自動車で選挙区を巡り話題となった[4][5]。体調不良のため1915年11月22日に議員を辞職し[2][4][5][8]、衆議院議員に1期在任した[2][6]。
1915年、日出町に私邸(現的山荘)が完成して立石町から移住した[5]。1916年1月、私邸で腎臓病のため死去した[3]。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、27頁。
- ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』471頁。
- ^ a b c d e 『大正過去帳』84頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『大分百科事典』582頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『大分県歴史人物事典』374-375頁。
- ^ a b 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』334頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』77頁。
- ^ 『官報』第993号、大正4年11月23日。
参考文献
[編集]- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 大分放送大分百科事典刊行本部編『大分百科事典』大分放送、1980年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。