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成川揆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

成川 揆(なるかわ はかる[1][2][3]安政6年10月20日1859年11月14日[1][2][3] - 1919年大正8年)1月26日[1][2])は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少将[4]日本海海戦時の仮装巡洋艦信濃丸」艦長として知られる。

人物

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江戸生まれ[2][注釈 1]。成川要人[注釈 2]の二男[3]海軍大学校[1][2]

1905年明治38年)の日露戦争における日本海海戦時は仮装巡洋艦信濃丸」の艦長だったが、哨戒中の五島列島付近でロシア海軍のバルチック艦隊を発見した[1][2]。その際に打電した「敵艦隊見ゆ」の一文は有名である。翌明治39年(1906年)に少将となる[2]

官歴

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栄典・授章・授賞

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参考文献

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  • 『日本人名大辞典』(講談社2001年
  • 『帝国海軍将官総覧』(太平洋戦争研究所、2002年

登場する作品

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ドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ 千葉県市原郡教育会編『千葉県市原郡誌』(1916年)では、市原郡鶴舞町出身の知名の士の一人として成川揆の名を挙げる[5]。江戸時代幕末期の遠江国浜松藩6万石井上家は、大政奉還後に上総国に移封されて鶴舞藩となり、この地で廃藩置県を迎えている。
  2. ^ 『人事興信録 初版』(1903年)では、貫属・族籍は「東京府士族」とある[3]

出典

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  1. ^ a b c d e 成川揆”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年9月4日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 成川 揆”. 20世紀日本人名事典. 2023年9月4日閲覧。
  3. ^ a b c d 成川揆 (初版[明治36(1903)年4月]の情報)”. 『人事興信録』データベース. 2023年9月4日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『帝国海軍将官総覧』 太平洋戦争研究所 p209
  5. ^ 『千葉県市原郡誌』, p. 1231.
  6. ^ 届の部 兵学寮届 新生徒永嶺光篤外52名入寮差許件, レファレンスコード C09111064700, アジア歴史資料センター
  7. ^ 『官報』第705号「叙任」1885年11月5日。
  8. ^ 『官報』第2237号「叙任及辞令」1890年12月11日。
  9. ^ 『官報』第3535号「叙任及辞令」1895年4月16日。
  10. ^ 『官報』第6423号「敍任及辞令」1904年11月26日。

参考文献

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  • 千葉県市原郡教育会『千葉県市原郡誌』千葉県市原郡、1916年。NDLJP:951002 

外部リンク

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