徳寿宮
徳寿宮 | |
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徳寿宮 | |
各種表記 | |
ハングル: | 덕수궁 |
漢字: | 德壽宮 |
発音: | トクスグン |
日本語読み: | とくじゅきゅう |
ローマ字: | Deoksugung |
徳寿宮(とくじゅきゅう、朝: 덕수궁、トクスグン)は大韓民国ソウル特別市にある李氏朝鮮の宮殿。
概要
[編集]徳寿宮は本来、第9代国王・成宗の実兄の月山大君の邸宅として造営された[1]。しかしその後、豊臣秀吉による文禄の役で義州に避難していた宣祖は、1593年にこの邸宅を、戦火で荒廃した景福宮のかわりの臨時の王宮とした。そのときは貞陵洞行宮と呼ばれた。さらに光海君が居住。そのときには「慶運宮(キョンウングン)」と命名された。
しかし、光海君(1575年-1641年)が昌徳宮(チャンドクグン)に移る[2]と顧みられることなく廃墟となった。
高宗は1897年に慶運宮を改修して璿源殿、成寧殿、普門閣、思成堂[3]を造らせて王宮の佇まいを整えている。1896年に閔妃暗殺事件が起きて一時、ロシア公館に避難したのちは慶運宮に居住し、即祚堂の扁額を太極殿と改めさせた(1897年旧暦10月[2])。内外の貴賓に会う場所を設けようと、咸寧殿(寝殿)を改築[2]、光武4年(1900年)に慶運宮を取り巻く宮壁を築く[4]。1907年の高宗退位までの間、慶運宮は日韓保護条約の締結など大韓帝国の歴史の舞台となった。
高宗の次の皇帝純宗(在位:1907年-1910年)は長寿を祈願して「慶運宮」を「徳寿宮」と改名した。1909年には西洋風の宮殿である石造殿が建築された。退位した後も高宗は徳寿宮に住み続けており、徳寿宮は韓国併合後も李王家の財産として扱われた。高宗が李太王となって以降は「徳寿宮李太王(とくじゅきゅうりたいおう)」の称号を帯びた。高宗の没後に博物館等が設置された[5]。
歴史
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朝鮮初期
[編集]行宮の時期
[編集]慶運宮の時代
[編集]法宮に指定
[編集]1904年の火災、徳寿宮の時代
[編集]遺構
[編集]- 大漢門 - 旧名「大安門」。現在のものは1907年完成。20世紀以降は正門として扱われている。王宮守門将交代式(衛兵交代式)が見られる。
- 仁化門 - 本来の正門。20世紀以降は交通の便が良い大漢門が正門として扱われている。
- 中和門
- 中和殿 - 英国式庭園に面する。
- 昔御堂[6]
- 徳弘殿
- 咸寧殿 - 高宗が元の寝殿を改築して迎賓館に変えた[2]。
- 静観軒
- 即祚堂 - 慶運宮別堂とも呼ばれた。1611年に光海君の母后である仁穆大妃の隠居処となった[7]。仁祖は1623年、この宮殿で即位し、仁穆大妃(光海君の母后)とともに昌徳宮に住まいを構え[8]、慶運宮の寝殿2つだけを残して改築した[1][9]。
- 浚明堂[9]
- 仰俯日 - 日時計である。
- 純宗の治世
大韓帝国皇帝として純宗がここで即位すると、徳寿宮と改称された[7]。
- 英国式庭園
- 石造殿 - 1909年竣工の韓国最初の西欧式建物[10]。1911年から1922年は李王世子李垠の宿舎となった。1933年以降は徳寿宮美術館として利用された。第二次世界大戦後にこの建物はアメリカ軍に接収され、朝鮮半島の占領統治を協議する米ソ共同委員会の会場となった。2009年からはじまった大規模修理を経て大韓帝国博物館(2014年以降)として使われており、その前身は国立博物館、宮中遺物展示館(1955年から2004年)[11]である。
- 石造殿別館 - 1937年竣工、洋風庭園を隔てて、中和殿の一画の左後方にある[10]。李王家博物館を昌慶宮から移設。
- 光明門
- 布徳門 - 旧名「平成門」。本来の布徳門はソウル市庁の近くにあったが失われた。旧布徳門の扁額を掛けて今に至る。
周辺にある遺構
[編集]- 重明殿 - 日韓保護条約を締結した建物。その後、敷地が分断縮小されたため、現在は徳寿宮から離れた場所となった。
衛兵交代式
[編集]大漢門では衛兵交代式を見学できる。事前予約は不要である。
ギャラリー
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石造殿とイギリス式庭園
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春の風景(1)
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春の風景(2)
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石造殿から徳弘殿に向かう門
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ユ・ヒョン門
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石造殿から見た徳弘殿
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1904年時点の徳寿宮地域の略図
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ホレイス・ニュートン・アレン(1858年-1932年)が手紙に同封したスケッチ。北側に練兵場、貞洞(정동)の税関基地が示してある
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徳寿宮公園(덕수궁 공원으)にあった時期の建物の配置図(1938年)
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b 鄭在鑂 1982, p. 39-42
- ^ a b c d 鄭在鑂 1997, p. 44-48
- ^ 鄭在鑂 1997, pp. 44–48, 『月刊韓国文化』
- ^ 『建築』〈韓国美術全集〉 1975
- ^ 長与 1924, pp. 82–83, コマ番号 0044.jp2
- ^ 『建築』〈韓国美術全集〉第14巻 1975, 「105 徳寿宮昔御堂」
- ^ a b 美谷島 1986, コマ番号0001.jp2
- ^ 鄭在鍾 1982, pp. 39–42
- ^ a b 『建築』〈韓国美術全集〉第14巻 1975, 「106 徳寿宮浚明堂と即祚堂」
- ^ a b 大鳥 1997, pp. 77–87
- ^ “東アジアの都市における歴史遺産の保護と破壊—古写真と旅行記が語る近代”. www.univ.gakushuin.ac.jp. 「古写真からアジアを見る」. 学習院大学国際センター(元国際研究教育機構). 2022年1月17日閲覧。
参考文献
[編集]本文の典拠。主な執筆者、編者の順。
- 大鳥居総夫「韓国石造美術の旅(9)下」『史迹と美術』第67巻2(672)、史迹美術同攷会、1997年2月、77-87頁、doi:10.11501/6067559、NDLJP:6067559。
- 金素雲 訳『建築』 14巻、金正基 責任編集・執筆(限定版)、同和出版公社〈韓国美術全集 日本語版〉、1974-1975。国立国会図書館書誌ID:000001285171。
- 鄭在鍾(著)、企画室アートプランニング(編)「博物館・美術館・古宮だより:徳寿宮--月山大君家に宣祖が起居し行宮と定めた」『月刊韓国文化』第4巻8(通号35)、ああとしすてむ、1982年8月、39-42頁、doi:10.11501/7952636、NDLJP:7952636。
- 鄭在鑂(著)、企画室アートプランニング(編)「[連載] 東洋の名苑10:徳寿宮の宮苑」『月刊韓国文化』第19巻10(通号215)、ああとしすてむ、1997年10月、NDLJP:7952816。
- 長与善郎『波』新しき村出版部、大正13年。doi:10.11501/977235。NDLJP:977235。
- 美谷島醇 写真『韓国の庭 : 昌徳宮秘苑を訪ねて 美谷島醇写真集』求竜堂、1986年11月。doi:10.11501/12422980。NDLJP:12422980。
関連項目
[編集]関連資料
[編集]発行年順。
李王家博物館の収蔵品
- 『李王家博物館所蔵品写真帖』李王家博物館 編(李王職、1912年)NCID BN15502937。
- 『李王家博物館所蔵品写眞帖』(李王職、1932年)NCID BC12116179。
- 『李王家博物館所蔵品写眞帖』(李王職、1933年)NCID BA55708754。
- 『李王家博物館所蔵品真帖』末松熊彦 編(李王職、1929年)NCID BA38583197。
- 『李王家博物館所蔵品写真帖』(韓國學資料開發院、2003年)NCID BA6244896X。
- 『李王家博物館所蔵朝鮮産鳥類目録』李王家博物館 編、再版(李王職、1918年)NCID BN13928767。
- 小森忍『匋雅堂談圃 : 支那古陶窯録』本編(匋雅会、1923年)(大正12年)doi:10.11501/971777、国立国会図書館書誌ID:100000039-I971777。附 (71×57cm) : 支那古陶磁焼窯略図。
- 「昌徳宮と武英殿の古陶磁」31-57頁。
- 「昌徳宮李王家博物館」
- 「匋雅会趣意書」107-112頁。
- 市山盛雄『韓郷』(真人社〈真人叢書 ; 第2編〉、1931年)(昭和6年)doi:10.11501/1052762、国立国会図書館書誌ID:000000642538。
- 「李王家博物館」126頁。
- 「李王家秘苑」127頁。
- 東京文化財研究所文化財情報資料部 編『美術研究』第1号(国立文化財機構東京文化財研究所、1932年)doi:10.11501/7964103、国立国会図書館書誌ID:000000019999-d7964103。
- 「7、(1) 陳鑑如筆『李齊賢肖像』京城 李王家博物館蔵』」欧文別題「Plates VII-VIII. "Portrait of Ri Seiken (李齊賢)" by Chen Chien-ju (陳鑑如)」
- 「7、(1) 陳鑑如筆 同自賛」欧文別題「Plates VII-VIII. "Portrait of Ri Seiken (李齊賢)" by Chen Chien-ju (陳鑑如)」
- 「8、陳鑑如筆 肖像部分」欧文別題「Plates VII-VIII. "Portrait of Ri Seiken (李齊賢)" by Chen Chien-ju (陳鑑如)」
- 『朝鮮名画集』聚楽社 編(聚楽社、1933年)(昭和8年)doi:10.11501/8311523、国立国会図書館書誌ID:000000763603。
- 2 筆者不詳「山羊図」
- 5 下「天人図」銅板画
- 6 下「四神図」銅板画
- 11 筆者不詳「佛画」
- 15 左 恭愍王筆「天山大獵図」
- 17 陳鑑如筆「李齊賢肖像」
- 18 伝・姜希顏筆「山水二図」
- 21 李上佐筆「松下步月図」
- 27 筆者不詳「白鹿図」
- 28 筆者不詳「魚介図」
- 29 伝・李澄筆「雪峰江閣図」
- 30 左 李霆筆「墨竹図」
- 34 李成吉筆「武夷九曲図」
- 35 金明國筆「雪景山水図」
- 36 左 金明國筆「人物図」
- 37 伝・尹毅立筆「山水二図」
- 39 孟永光筆「秋聲図」
- 41 右 姜世晃筆「米法山水図」
- 43 卞尙壁筆「噪雀戱猫図」
- 44 金得臣筆「行樂図」
- 45 金弘道筆「唐犬図」
- 46 左 金弘道筆「簫仙図」
- 48 李寅文筆「江山無盡図」
- 49 左 筆者不詳「道庵肖像」
- 加藤土師萠『支那・満鮮の陶業を視て』(日本陶磁器工業組合聯合会、1936年)(昭11年)doi:10.11501/1229059、国立国会図書館書誌ID:000000716581
- 「白瓷舟形花瓶」高麗時代
- 「青磁象嵌爪形水注」高麗時代
- 「彫三島唐草紋扁壺」李朝初期
- 「絵刷毛目壺」李朝初期
- 「絵刷毛目瓶」李朝初期
外部リンク
[編集]- 徳寿宮(トクスグン)紹介 - ソウル特別市文化観光公式サイト
- 重明殿 - ソウルナビ
- 徳寿宮史 小田省吾 (李王職、1938)
座標: 北緯37度33分57.00秒 東経126度58分30.00秒 / 北緯37.5658333度 東経126.9750000度