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慶元寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
慶元寺

山門
所在地 東京都世田谷区喜多見4-17-1
位置 北緯35度37分38.4秒 東経139度35分40.7秒 / 北緯35.627333度 東経139.594639度 / 35.627333; 139.594639座標: 北緯35度37分38.4秒 東経139度35分40.7秒 / 北緯35.627333度 東経139.594639度 / 35.627333; 139.594639
山号 永劫山(えいごうさん)[1]
院号 華林院[1]
宗旨 浄土宗[1]
本尊 阿弥陀如来[1]
創建年 文治2年(1186年)
中興年 天文19年(1540年)
中興 真蓮社空誉上人
正式名 永劫山華林院慶元寺
札所等 多摩川三十四ヶ所観音霊場4番
文化財 観経曼荼羅像・涅槃像・閻魔像
喜多見若狭守座像
法人番号 2010905000166 ウィキデータを編集
慶元寺の位置(東京都区部内)
慶元寺
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慶元寺(けいげんじ)は、東京都世田谷区喜多見四丁目にある浄土宗の寺院。

概要

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創建は平安時代江戸に因んで名乗った江戸氏によって現在の皇居周辺に造られた寺院である。江戸氏が室町時代、現在の喜多見の地に転居したのを契機に寺も移転。江戸時代の寛永13年(1636年)には徳川三代将軍徳川家光から朱印状を賜り[1]、格式ある寺院となった。

現存する本堂は1716年の建築で、世田谷区にある寺院建築物では最古であると言われている。[2]

歴史

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文治2年(1186年)に江戸太郎重長により江戸城(現:皇居)付近にて創建された。当初は岩戸山大沢院東福寺といい、天台宗の寺院であった。

武蔵平一揆の敗退などにより、江戸氏は没落していき、太田道灌に江戸城を明け渡し支配拠点を喜多見に移転。それに伴い当寺院も応仁2年(1468年)に喜多見の地に移転。天文19年(1540年)に真蓮社空誉上人により、浄土宗に改宗された。寺院名も永劫山華林院慶元寺となった。[3]

江戸氏は江戸時代には喜多見氏と改姓して徳川幕府に仕えた。そして、喜多見勝忠により寺は文禄二年(1593年)に再建。その後、寛永13年(1636)11月9日徳川家光より寺領10石の朱印状を受け格式ある寺院となった。[2]

宝永年間に火災にあい、寺宝を失ったが、1716年に現存する本堂が完成した。[2]

現在当寺院には江戸氏(後の喜多見氏)の歴代の墓があり、江戸時代に造られた山門や鐘楼堂、さらには喜多見古墳群中の慶元寺三号墳から六号墳までの古墳がある。

現在では隣接して当寺院が経営する慶元寺幼稚園がある。

行事としては春には釈迦の誕生を祝う花まつり、夏には御霊まつり、秋には十夜法会が行われる。[4]

慶元寺幼稚園

施設

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  • 本堂
  • 薬師堂
  • 三重塔
  • 江戸氏累代の墓

喜多見不動堂

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喜多見不動堂入口(北緯35度38分19秒 東経139度35分34.2秒 / 北緯35.63861度 東経139.592833度 / 35.63861; 139.592833 (喜多見不動堂)

喜多見不動堂は世田谷区成城にある慶元寺の境外仏堂である。当地の住人だった浦野半次郎らにより、村内の安全祈願などを願うために造られたもので、明治9年(1876年)に現在地に建てられた。[5]

当地には不動堂の他、岩屋不動明王・玉姫稲荷などがある。また境内には自然湧水によるもあり、かつては信者が水行したこともあった。[5]

昭和16年(1941年)に慶元寺の境外仏堂になった。

アクセス

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慶元寺

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喜多見不動堂

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  • 〒157-0066 東京都世田谷区成城4-2
  • 小田急小田原線・成城学園前駅または喜多見駅より徒歩約10分
  • 拝観は日中の時間帯のみ無料。
  • 駐車施設:なし

脚注

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  1. ^ a b c d e 新編武蔵風土記稿 喜多見村.
  2. ^ a b c 世田谷区教育委員会掲示板「慶元寺」
  3. ^ せたがや社寺と史跡
  4. ^ 世田谷区編「せたがや百景」No.60 喜多見慶元寺界わい 
  5. ^ a b 世田谷区教育委員会掲示板「喜多見不動堂」

参考文献

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関連項目

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