コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

感応寺 (世田谷区)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
感応寺
所在地 東京都世田谷区上馬4-30-1
位置 北緯35度38分17.1秒 東経139度39分35.5秒 / 北緯35.638083度 東経139.659861度 / 35.638083; 139.659861 (感応寺 (世田谷区))座標: 北緯35度38分17.1秒 東経139度39分35.5秒 / 北緯35.638083度 東経139.659861度 / 35.638083; 139.659861 (感応寺 (世田谷区))
山号 如法山
院号 正覚院
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 江戸時代初期
開山 清薫尼
公式サイト 水子供養-永代供養-ペット葬儀「浄土宗感応寺」東京都世田谷区
法人番号 2010905000133 ウィキデータを編集
感応寺 (世田谷区)の位置(東京都区部内)
感応寺 (世田谷区)
テンプレートを表示

感応寺(かんのうじ)は、東京都世田谷区にある浄土宗寺院

歴史

[編集]

江戸時代初期、清薫尼によって開山された。清薫尼は江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の侍女であった。牛島(現・東京都墨田区)の離れ御殿を与えられ、寺を創建した。これが当寺の起源である[1]

当初の名称は「清薫寺」であったが、第5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が綱吉の病気平癒を祈願したところ、たちまち治ったため、桂昌院はこれに感謝して寺領を寄進し、「感応寺」に改称させた[1]

1923年大正12年)の関東大震災の際、17世住職平松誡厚法尼は弟子たちとともに本尊等の寺宝を背負って、本所被服廠跡地に避難しようとした。ところが、どこからともなく「被服廠跡へは行くな、吾妻橋へ行け」という声が聞こえ、その通りにしたところ、無事避難できた[2]という[3]

翌年の1924年(大正13年)に現在地に移転した[1]

交通アクセス

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 『せたがや社寺と史跡(その三)』世田谷区教育委員会、1970年、12p
  2. ^ 被服廠跡は火災旋風の大惨事が起きた場所であり、吾妻橋も住職一行が避難した後に燃え落ちた。当時付近にいて逃げ遅れた者に俳人富田木歩がいる。
  3. ^ 感応寺について感応寺

参考文献

[編集]
  • 『せたがや社寺と史跡(その三)』世田谷区教育委員会、1970年

外部リンク

[編集]