愛西市立立田南部小学校
表示
愛西市立立田南部小学校 | |
---|---|
北緯35度9分8.85秒 東経136度41分47.73秒 / 北緯35.1524583度 東経136.6965917度座標: 北緯35度9分8.85秒 東経136度41分47.73秒 / 北緯35.1524583度 東経136.6965917度 | |
過去の名称 | 立田村立立田南部小学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 愛西市 |
設立年月日 | 1907年 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | B123210008407 |
所在地 | 〒496-0942 |
愛知県愛西市山路町小割1 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
愛西市立立田南部小学校(あいさいしりつ たつたなんぶしょうがっこう)は、愛知県愛西市山路町にある公立小学校。1907年(明治40年)に立田村南部尋常小学校として設立され、1986年(昭和61年)に立田村立立田南部小学校と改称し、2005年(平成17年)4月1日の市町村合併に伴って愛西市立へと移行した。略称は「立南小」(たつなんしょう)あるいは「南部小」(なんぶしょう)。
沿革
[編集]本校
[編集]- 1907年(明治40年) - 市町村合併により既存の尋常小学校が廃止され、立田村北部尋常小学校と立田村南部尋常小学校が設立される。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 立田村南部国民学校に改称。[1]
- 1986年(昭和61年) - 立田村立立田南部小学校に改称。
- 2005年(平成17年)4月1日 - 市町村合併に伴い愛西市立立田南部小学校に改称。
福原分校
[編集]- 1873年(明治6年)9月 - 修斉学校が設置される。[2]
- 1876年(明治9年)12月 - 伊勢暴動で校舎が焼失。[2]
- 1877年(明治10年) - 加藤太兵衛の寄付で校舎を再建し、加立学校に改称。[2]
- 1892年(明治25年)4月 - 加立尋常小学校に改称。[2]
- 1891年(明治24年)10月28日 - 濃尾地震で校舎が倒壊。[2]
- 1894年(明治27年) - 校舎を再建。[2]
- 1905年(明治38年)4月1日 - 加立尋常小学校が廃止され、立和尋常小学校の福原分場となる。[2]
- 1907年(明治40年)3月1日 - 立和尋常小学校が廃止され、立田村南部尋常小学校の福原分場(第二分場)となる。[2]
- 1944年(昭和19年)12月7日 - 昭和東南海地震で校舎が被災。[2]
- 1957年(昭和32年)7月28日 - 福原分校職員住宅が竣工。[2]
- 1960年(昭和35年)8月15日- 福原輪中堤が決壊して床上浸水。[2]
- 1961年(昭和36年)6月27日 - 福原輪中堤が決壊し、洪水のために休校。[2]
- 1964年(昭和39年)4月4日 - ミルク給食の開始。[2]
- 1965年(昭和40年)12月25日 - 鉄筋コンクリート造の校舎が竣工。[2]
- 1966年(昭和41年) - 完全給食の開始。[2]
- 1968年(昭和43年)1月16日 - 教員住宅が竣工。[2]
- 1978年(昭和53年)4月 - 渡船による通学風景がNHKで放送される。[2]
- 1986年(昭和61年)3月25日 - 1教室を増築し、運動場を拡張。[2]
- 2005年(平成17年)4月1日 - 市町村合併に伴い愛西市立立田南部小学校福原分校に改称。
- 2018年(平成30年)3月31日 - 休校[3][4][5]。
- 2019年(平成31年)3月31日 - 廃校[3][4][5]。
児童数の変遷
[編集]『愛知県小中学校誌』(2018年)によると、児童数の変遷は以下の通りである[6]。
1947年(昭和22年) | 519人 | |
1957年(昭和32年) | 513人 | |
1967年(昭和42年) | 321人 | |
1977年(昭和52年) | 314人 | |
1987年(昭和62年) | 354人 | |
1997年(平成9年) | 319人 | |
2007年(平成19年) | 271人 | |
2017年(平成29年) | 186人 |
通学区域
[編集]学区は旧立田村のうち三和町・小茂井町・雀ヶ森町以南の地域で、卒業生は愛西市立立田中学校に進学する[7]。
木曽川に隔てられているため南部小学校本校への通学が困難な立田町福原地区の生徒は、福原分校に通っていた。児童数の減少によって福原分校は2018年(平成30年)3月をもって休校となり、2019年(平成31年)3月をもって廃校となる[3][4][5]。なお、1985年(昭和60年)の立田大橋開通以前、福原地区からの交通手段は立田渡船のみであった。
脚注
[編集]- ^ 立田村史編さん委員会『新編 立田村史 通史編』立田村、1996年、p.198
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 立田村史編さん委員会『新編 立田村史 通史編』立田村、1996年、pp.334-335
- ^ a b c 「休校中の福原分校、廃校へ 愛西・立田南部小 来年度も児童ゼロで」『中日新聞』2018年11月22日
- ^ a b c 「愛西・立田南部小 福原分校、廃校へ 140年の歴史に幕 来年3月」『毎日新聞』2018年11月22日
- ^ a b c 「『輪中』の分校 140年の歴史に幕」『朝日新聞』2018年11月25日
- ^ 六三制教育七十周年記念 愛知県小中学校誌 合同記念誌編集特別委員会 2018, p. 433.
- ^ 愛西市役所教育委員会学校教育課. “小・中学校”. 2019年1月15日閲覧。
参考文献
[編集]- 立田村史編さん委員会 編『新編 立田村史 通史編』立田村、1996年。全国書誌番号:97016491。
- 六三制教育七十周年記念 愛知県小中学校誌 合同記念誌編集特別委員会 編『六三制教育七十周年記念 愛知県小中学校誌』愛知県小中学校校長会・名古屋市立小中学校長会、2018年2月15日。