愛宕百韻
愛宕百韻(あたごひゃくいん)は、本能寺の変の直前に愛宕山で明智光秀が張行した連歌『賦何人百韻』の通称である。「明智光秀張行百韻」「天正十年愛宕百韻」とも。
概要
[編集]天正10年(1582年)5月24日(あるいは27日、28日)[1]、明智光秀が山城国愛宕山五坊の一つである西之坊威徳院で、明智光慶、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐と巻いた百韻である。表向きは毛利征伐の戦勝祈願、実は織田信長を本能寺で破るための明智光秀の祈願をひそかにこめたものと伝える[2]。
発句は光秀の「ときは今 あめが下しる 五月かな」、脇は行祐の「水上まさる 庭の夏山」、第三は里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」。発句は、明智の姓の「土岐」をいいかけて、「雨が下」に「天が下」をいいかけて、主人織田信長の殺害という宿願の祈請のものであるといい、紹巴はこのために責問を受けたという。また発句の「あめが下しる」を「あめが下なる」に改めたという[要検証 ]。続群書類従に収める。
最も世間によく知られた連歌とされ[1]、『歴史群像』でも取り上げられた[3][4]。光秀の真意や、「あめが下しる」と「あめが下なる」のどちらであったかは議論があり[1][4]、古くは桑田忠親が、近年では明智憲三郎が「天が下なる」を主張しており、勢田勝郭も、もし発句が「天が下しる」なら、信長に代わって天下人たろうとする光秀の意思が、その披露の瞬間に、一座の全員に共有される(絶対!)ので、「天が下なる」でなければならないと主張[1]。さらに、羽柴秀吉の意を受けて『惟任退治記』を書いていた大村由己が、親交のある紹巴から愛宕百韻の情報を得て、発句を改竄した[5]、という明智憲三郎の説を、勢田は是としている[1]。『惟任退治記』では以下のように書かれている。「さて五月二十八日、光秀は愛宕山に登り、連歌一座を興行した。光秀の発句。時は今 天下しる 五月哉 いまこれを推量すると、この句がまさしく謀反の兆しであった。そのとき誰が彼の企みに気づいただろうか」(扨五月廿八日。登愛宕山。催一座之連歌。光秀發句云。時ハ今天下シル五月哉 今思惟之。即誠謀反之先兆也。何人兼悟之哉)[6]。
「天が下しる」は天下を治めるという意味で、光秀の決意を示し、「時は今、土岐の一族である自分が天下を治めるべき季節の五月となった」の意であるが、「天が下なる」の場合は、「時は今、雨が下である五月」の意で、五月雨の光景となる。光秀失脚後、本能寺の変を事前に承知していたということで責められた紹巴が、もとは「天が下なる」であったのを光秀があとで「しる」に書き換えたと申し開きをしたなど、『三曉庵随筆』ほかの諸書にさまざまの伝説が見える[7]。
現在流布している『信長公記』では、発句は「ときは今 あめが下知る 五月哉」、脇は行祐の「水上まさる 庭のまつ山」、第三は里村紹巴の「花落つる 流れの末を 関とめて」となっているが、岡山大学附属図書館池田家文庫に所蔵されている太田牛一自筆の原本では、牛一自身が文字を擦り消して修正し、発句は「ときは今 あめが下なる 五月かな」、脇句は「水上まさる 庭のなつ山」、第三は「花落つる 池のながれを せきとめて」となっている。これも、豊臣秀吉の右筆で、天正十年(1582)に大阪天満宮連歌会所の別当に任じられた大村由己が、脇句と第三は発句にこめられた光秀の祈願に対する激励文となっており、発句が「下しる」であれば、行祐も紹巴も光秀の謀反を激励したことになってしまうので、「夏山」を「まつ山」、「池の流」を「流れの末」に変えて牛一に教えたために、発句だけでなく、脇句と第三も改竄されて流布されることになった[8]。連歌の規則では、発句と脇は同季でなければならないが、改竄された脇句「水上まさる 庭のまつ山」では、無季となってしまい、明白に不可である[1]。改竄された第三「花落つる 流れの末を せきとめて」には、「花が落ちつもったことだ。遣り水の流れの先をせきとめて〈ご謀反をおとどめしたい〉[9]」や「花が落ちるが、その花で流れて行く≪謀反の≫水をせきとめたいものだ[10]」といった解説が見られる。
愛宕神社に奉納された愛宕百韻の原本は江戸期の火災で焼失したと伝わるが、写本14本が伝存しており、その内の9本の写本を調べたところ、発句に「下なる」と書いていたのは、続群書類従所収本、京都大学附属図書館所蔵平松本、大阪天満宮所蔵本の3本であったが、脇句・第三は9本ともに、同じ句が書かれていた[11][12]。張行日に関しては、『惟任退治記』『信長公記』以下、諸々の編纂された史書の類は一致して、「5月28日」となっているが、愛宕百韻の写本には「5月28日」となっているものはなく、続群書類従本と国会図書館本は「5月27日」で、それ以外は「5月24日」である[1]。
関連文献
[編集]- 山田孝雄『連歌概説』岩波書店、1937年、NCID BN04022714[1](再刊、1980年、NCID BN10260604)。
- 島津忠夫 校注『連歌集』新潮社〈新潮日本古典集成〉、1979年、ISBN 4106203332[1](新装版、2020年、ISBN 978-4106208621)。
- 金子兜太「天正十年愛宕百韻」『波』第13巻第12号(通算120号)、1979年12月、16-18頁。
- 籬悠子(秋里悠児)「愛宕百韻を讀む」『丹波』第21号、2019年、66-68頁、NAID 40022119436。
- 勢田勝郭「『愛宕百韻』の注解と再検討」『奈良工業高等専門学校紀要』、第55号、2020年3月、41-28頁、ISSN 0387-1150。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 勢田勝郭「『愛宕百韻』の注解と再検討」『奈良工業高等専門学校紀要』、第55号、2020年3月、41-28頁、ISSN 0387-1150。
- ^ 島津忠夫『連歌集』新潮社1979年、p.316
- ^ 津田勇「歴史発見 本能寺論争に新解釈!! 愛宕百韻に隠された光秀の暗号」『歴史群像』第4巻第2号(通算18号)、1995年4月、154-161頁。
- ^ a b 田中隆裕「愛宕百韻は本当に「光秀の暗号」か? ― 連歌に透ける光秀の腹のうち」『歴史読本』第45巻第12号(通算727号)、2000年8月、170-175頁、NAID 40003828019
- ^ 明智憲三郎『完全版 本能寺の変 431年目の真実』河出書房新書2019年、pp.110-115
- ^ 大村由己著・金子拓解説・訳注「原文と現代語訳で読む『惟任退治記』」『ここまでわかった! 明智光秀の謎』株式会社KADOKAWA2014年電子書籍版
- ^ 島津忠夫『連歌集』新潮社1979年、p.317
- ^ 明智憲三郎『完全版 本能寺の変 431年目の真実』河出書房新書2019年、pp.106-117
- ^ 訳者 榊山潤『信長公記(全)』筑摩書房2017年電子書籍
- ^ 志村有弘『信長公記の世界 信長戦記』ニュートンプレス2003年、p.201
- ^ 明智憲三郎『完全版 本能寺の変 431年目の真実』河出書房新書2019年、p.108
- ^ 連歌総目録編纂会編『連歌総目録』明治書院1997年、pp.532-534
外部リンク
[編集]- 『集連』収録「愛宕百韻」写本 - 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
- 『愛宕百韻-1714043』 - コトバンク
- Matsuyama hideyuki (2012年6月25日). 京都愛宕研究会 「愛宕百韻連歌会」 - YouTube