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邵慎嬪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
悼温公主から転送)

慎嬪邵氏(しんひん しょうし、? - 1644年以降)は、泰昌帝の側室。

経歴

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出身と生年については記録がない。

万暦48年(1620年)7月、万暦帝の崩御により泰昌帝が即位する[1]が、翌月に崩じた。代わって天啓帝が即位し、邵氏らはことごとく追放された。間もなく、邵氏は1人の女子を産んだが、夭逝したという[2]。この時には名前も位号も与えられておらず、墓もなかった。

崇禎7年(1634年)、邵氏は崇禎帝により召し出され、光廟慎嬪(泰昌帝の廟号の光宗による)の号を授けられた。甥の邵文麒は正五品錦衣衛千戸の位を授けられた。邵氏の娘は懐淑公主(天啓帝らの嫡長姉)の墓に従祀され、また崇禎14年(1641年)、名前(朱徽姃)と悼温公主の号を追贈された。

崇禎17年(1644年)3月、李自成軍が皇宮に侵入すると、実家へ逃れて避難した。代には、清朝政府から手当を受けて扶養された。

子女

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伝記資料

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  • 『清世祖実録』
  • 『崇禎長編』
  • 『春明夢餘録』卷29
  • 『綏寇紀略』

脚注

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  1. ^ 諒闇の期間に新皇帝の夜伽は禁物であったが、泰昌帝は数人の新しい美人を寵愛した。
  2. ^ 人工妊娠中絶の可能性がある。