志摩清直
生誕 | 1858年7月7日 |
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死没 | 1894年9月17日(36歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1881年 - 1894年 |
最終階級 | 海軍大尉 |
墓所 | 青山霊園1ロ19-1 |
志摩 清直(しま きよなお、1858年7月7日(安政5年5月27日) - 1894年(明治27年)9月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉。
生涯
[編集]日向国都城(現在の宮崎県都城市)に生まれた。父・清雄は宮崎県士族。弟の山地通信は陸軍将校、志摩猛は戦艦「霧島」艦長等を務めた海軍少将である。志摩は9歳のときに小姓として出仕した経験がある。
海兵士官学校予科生徒在学中に同校は廃校となり[1]、1877年(明治10年)9月、海軍兵学校へ転入。1880年(明治13年)9月「龍驤」乗組みとして実地訓練を受け、豪州へ回航。1881年9月少尉補となる。兵学校8期生であり、同期に八代六郎がいる。 1885年(明治18年)6月海軍少尉任官。「摂津艦」分隊士を務め、次いで兵学校教官となり砲術を担当した。大尉に進み、「武蔵」・「高千穂」の分隊長を歴任し、英国で建造された「千代田」回航員(分隊長)を務めている。
帰国後、兵学校監事を経て海軍大学校甲号学生(5期・砲術)となった。黒井悌次郎、江頭安太郎は海大の同期生である。卒業後、砲術練習所学生として訓練を受けている最中の1894年(明治27年)6月、運送船「近江丸」の監督官を命ぜられ、次いで「松島」分隊長に補せられた。「松島」は清国北洋艦隊の「定遠」・「鎮遠」の巨砲に対抗する艦として日本の期待を集めており、日清戦争における連合艦隊旗艦である。砲術専攻士官として経歴を重ね、海軍大射的会で一等となるなどの実績があった志摩は、第1分隊長としてその主砲を預かる[2](砲術長は井上保大尉[3])。
日清戦争において威衛海攻撃などに参加。黄海海戦に際し、「松島」下甲板で前部両舷砲塔の指揮にあたっていた志摩は、敵弾の命中により戦死した[4]。志摩は海中に投げ出され、帽子を振りながら万歳を絶叫しつつ海没したという[5]。なお勇敢なる水兵・三浦虎次郎が戦死したのも同日の同じく「松島」下甲板である。
志摩には当時4歳になる長男がいた。志摩が出征に際し妻に残した書には「武運拙く万一の場合は清英に父の志を継ぎ海軍に従事させよ」とあった[6]。この長男は海軍兵学校(39期)に進み、海軍中将としてレイテ沖海戦に参加した志摩清英である。
栄典
[編集]- 1885年(明治18年)9月16日 - 正八位[7]
- 1890年(明治23年)1月17日 - 従七位[8]
- 1891年(明治24年)12月16日 - 正七位[9]
- 1898年(明治31年)10月25日 - 贈正五位[10]
脚注
[編集]- ^ 『海軍七十年史談』pp.250-251
- ^ 『帝国軍人名誉列伝』「海軍大尉志摩清直君」
- ^ 『黄海海戦ニ於ケル松島艦内ノ状況』
- ^ 経歴はアジア歴史資料センターの史料に基づく。
- ^ 『回想の日本海軍』「正戸為太郎翁が語る日清戦争実戦談」
- ^ 『日清戦争軍人名誉忠死列伝』「志摩清直君」
- ^ 『官報』第709号「叙任」1885年11月10日。
- ^ 『官報』第1970号「叙任及辞令」1890年1月25日。
- ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.12