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徳山村立徳山小学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
徳山村立徳山小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 徳山村
設立年月日 1873年
閉校年月日 1987年
共学・別学 男女共学
分校 塚分校、戸入分校、山手分校、櫨原分校、門入分校
所在地 501-0814[注釈 1]
岐阜県揖斐郡揖斐川町徳山[注釈 2]
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徳山村立徳山小学校 (とくやまそんりつ とくやましょうがっこう)は、かつて岐阜県揖斐郡徳山村徳山に存在した公立小学校

概要

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  • 本校は徳山(通称:本郷)に存在し、徳山村の中心地から離れた5つの集落(塚・戸入・山手・櫨原・門入)に分校が設置されていた。
  •  徳山村は徳山ダムの建設により、門入地区以外の地域がダム湖に水没することとなったため、集団離村[注釈 3]。それに伴い廃校となった。
  • 校舎(鉄筋コンクリート造)は解体されずに、そのまま湖底に沈んでいる。また、かつての校舎の姿は1983年公開の映画ふるさとで確認できる。

沿革

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  • 1873年(明治6年) - 徳山村に伝芳舎が開校する。
  • 1881年(明治14年) - 伝芳舎と支校(幽香舎文炳舎門入舎)が統合され、徳山学校になる。塚分教場櫨原分教場戸入分教場門入分教場を設置する。
  • 1886年(明治19年) - 徳山簡易科小学校に改称する。
  • 1889年(明治22年)7月1日 - 徳山村、山手村、櫨原村、塚村、開田村、戸入村、門入村が合併し、徳山村が発足。
  • 1901年(明治34年) - 徳山尋常小学校に改称する。
  • 1917年(大正6年) - 山手分教場を設置。
  • 1919年(大正8年) - 徳山尋常高等小学校に改称する。
  • 1941年(昭和16年)4月1日 - 徳山国民学校に改称する。
  • 1947年(昭和22年)4月1日 - 徳山村立徳山小学校に改称する。徳山村立徳山中学校との併設校。
  • 1954年(昭和29年)5月13日 - 本郷地区の大半を焼失した火災に巻き込まれて校舎全焼[1]
  • 1960年(昭和35年)4月 - 徳山中学校が独立し、小中併設が解消される。徳山小学校は単独校となる。
  • 1965年(昭和40年)9月 - 四〇・九風水害(奥越豪雨)による集中豪雨により校舎が倒壊する。
  • 1966年(昭和41年) - 新校舎(鉄筋コンクリート造2階建)が完成。
  • 1983年(昭和58年)
    • 3月 - 塚分校が休校する。
    • 11月 - 「徳山ダム建設事業に伴う損失補償基準」が調印され一般補償交渉が妥結。以降、住民の集団離村が始まる。
  • 1985年(昭和60年)3月 - 戸入分校山手分校が休校する。
  • 1987年(昭和62年)
    • 3月31日 - 集団離村により廃校。休校していた3つの分校(塚分校、戸入分校、山手分校)、及び櫨原分校門入分校を廃止。
    • 4月4日 - 徳山小学校が藤橋小学校本郷分校となる[注釈 4]。これは徳山ダム移転補償交渉未解決の世帯が13世帯あり、そのうち2世帯(計4名)の児童がいたため、昭和62年度限りの特別措置で設置されたものである。教師3名が派遣され、授業を行った。
    • 12月 - 該当の児童が全員転校したため、本郷分校を休校。
  • 1993年(平成5年)3月 - 本郷分校を廃止。

脚注

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  1. ^ 現在の郵便番号。
  2. ^ 現在の住所表記。廃校時は揖斐郡徳山村大字徳山。
  3. ^ 門入地区も交通が途絶して「生活共同体としての社会的、経済的な機能を喪失」するため、他の集落同様に全住民が移転した。
  4. ^ 「本郷」は徳山村字徳山の通称。
  1. ^ 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、98頁。ISBN 9784816922749 

参考文献

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  • 徳山村誌 (徳山村 1973年) P.851 - 908
  • 藤橋村閉村記念誌ふじはし (藤橋村 2005年) P.108 - 109


関連項目

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