御式内
御式内(おしきうち)
3.会津藩職制の最上位の御敷居内に、家老・若年寄・番頭・奉行がある。剣術は表芸、柔術は裏芸といわれていた。「御式内」の名称は御敷居内から引用したもので、会津藩の文献には確認されていない。会津で農民の武田惣角以外の使い手は確認されていない。近習の御小姓頭、御厩別当(馬廻役)、御供番頭は同じ職場である。家老西郷頼母は14歳で御小姓頭になった。御供番(60名)は藩主護衛役で武芸に秀でた者が選ばれ、武芸十八般を会得した。同じ職場の御小姓見習、奥女中などに護身の柔術を教えた。城中は帯刀が禁じられ、護身の当身、抑え技、投げ技があった。呼吸、気を鍛錬する合気柔術ではない。戊辰戦争後、武田惣角の同居人の藩士御供番佐藤金右衛門は武芸十八般で「御式内」を教え、孫娘コンは武田惣角の妻になった。
また、西郷頼母は武田惣角に大東流の名前、歴史、和歌を与えた。身長140センチの立った写真、容姿、眼力などの特徴から、長年武術を鍛錬した達人とは思えない。頼母の生涯日誌の全646名に武田惣角の名前、武術・密教・修験道は確認されていない。「武田惣角一代記」が公開され、合気の意味は修験道の気合術(気合・合気)から引用したものである。
『大東流合気武道百十八条』(石橋義久)によると、柔術の技は一刀流剣術(一刀流溝口派・小野派一刀流)の動作や理合において、類似している。一本捕は剣術の巻落としからの突き、車倒は迎突、引落は地主、四方投げなどがある。御式内の柔術は剣術の技を応用し、武田惣角が保科近悳に会津藩の権威を付けてもらい、精妙な技に仕上げた。合気道にも一本捕、四方投げの技があり、それぞれ研究されている。
さらに、御式内は小野派一刀流渋谷東馬が教えた説がある。渋谷は御典医でもあるが、戊辰戦争で戦い、明治以降は新政府の監視が厳しく剣術は教えていない。代わりに師範代武田善十郎が教え、坂下警察署師範代も務めたことが、子孫武田幸作の記録にある。明治15年、武田惣角は福島の格闘事件で瀕死の重傷を負い自宅に帰った。隣の佐藤金右衛の尽力で渋谷道場の破門を免れた。英名禄に渋谷東馬門人とあり、武名がないのは格闘事件の不祥事で免許をもらえなかった。御典医の渋谷が業務外の殿中で柔術を教えた記録はなく、武田惣角に教えた可能性は低い。
資料として、御供番の佐藤金右衛門は「明治戸籍」に武田家同居人、子孫の『佐藤家伝記』に武田惣角、「武田惣角一代記」に佐藤家の記述がある。日新館師範黒河内伝五郎とは師弟・親戚関係になっている。黒河内伝五郎は「柔術は武芸の元素、これを極めれば他の武芸を極めることは難しくない」と語った。しかし、黒河内の稲上心妙流柔術は残されていない。御式内(御留技・城中護身術)は、黒河内が御供番にも指導し、佐藤金右衛門が15年間武田惣角に指導して受け継がれたものである。『会津雑学Ⅱ』池月映 歴史春秋社 2021