志摩町御座
志摩町御座 | |
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御座白浜海水浴場 | |
志摩町御座の位置 | |
北緯34度16分32.2秒 東経136度45分55.3秒 / 北緯34.275611度 東経136.765361度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 三重県 |
市町村 | 志摩市 |
町名制定 | 2004年(平成16年)10月1日 |
面積 | |
• 合計 | 2.39 km2 |
標高 | 5 m |
人口 | |
• 合計 | 446人 |
• 密度 | 190人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
517-0705[WEB 2] |
市外局番 | 0599(阿児MA)[WEB 3] |
ナンバープレート | 三重 |
※座標・標高は志摩市御座コミュニティセンター付近 |
志摩町御座(しまちょうござ)は、三重県志摩市の地名。2004年時点の面積は2.39km2[1]。
2003年(平成15年)時点、専業農家はなく、漁業と観光業が中心である[2]。
地理
[編集]志摩市の南部、志摩半島最南端の先島半島(前島半島)西端に位置する[3]。北・南・西の三方を海に囲まれ、北から西にかけては英虞湾に、西から南にかけては太平洋(熊野灘)に面し、太平洋岸は海食崖を形成する[4]。岩場のわずかな風化土壌の上などに耐潮風性のハチジョウススキ・キノクニシオギク・アゼトウナ・ヒゲスゲ・ハマカンゾウ・ハマアザミ・テリハノイバラなどが混生する[5]。北西約2km先には海を挟んで浜島町浜島と向かい合う[4]。東は志摩町越賀と接する。
地形的には隆起海食台地上に展開し、水田はほとんど見られない[4]。黒森と金比羅山は互いに台地上に孤立した山である[6]。御座は山林面積率が6 - 7割を占め、耕地は少ない[7]。集落は御座港付近と小字小浦にある[4]>。御座の中心集落は海の荒れる東風を避けるように立地している[8]。
産業としては沿岸漁業が盛んで、海女漁業と真珠の養殖が特徴である[4]。志摩町の他の大字と同じく、真珠養殖が主で海女漁業が従となっている一方、海女の操業日数は志摩地方では多い方である[9]。農業面では、二期作や暖地農業の適地として普及・研究の対象となったことがある[2]。
- 山:黒森(96m)、金比羅山(99m)
- 岬:御座岬、岩井崎
- 島:矢摺島
山
[編集]黒森
[編集]黒森(くろもり)は、三重県志摩市志摩町御座にある、標高96mの山。正式な山名は見崎山[10]。熊野灘沿岸に位置し、森が作る影によって水面を覆って漁場を守る「魚付き林」の役割を果たす[11]。樹種はツブラジイを主とする常緑広葉樹である[10]。
黒森の名は、沖合から見た時に木々が生い茂って黒く見えることに由来する[10]。山頂付近には灯台が設置されている[10]。
金比羅山
[編集]金比羅山(こんぴらやま、こんぴらさん)は、三重県志摩市志摩町御座にある、標高99mの山[WEB 4]。英虞湾や熊野灘を望み[12]、鳥羽一郎の演歌『志摩半島』では「金比羅山は四面皆海(しめんみなうみ)」と歌われている[WEB 5]。毎年正月には初日の出を見に多くの人が集まる[WEB 4]。
山麓に空海ゆかりの不動明王があることから「聖が岳」と呼称されたが、後に金比羅権現を祀るようになったことから、金比羅山に改名したと伝わる[12]。
歴史
[編集]近世まで
[編集]縄文時代や弥生時代の遺跡が各地で発見され、地蔵遺跡からはシカの角でできた小刀や刀装が出土している[13]。『神宮雑例集』には、「胡座」として記録が残る。ただし、これ以外に「胡座」に関する記述は残っておらず、詳しいことは分からない[14]。文和4年8月(ユリウス暦:1355年9月)の『二見御厨村主末継言上書』には「御坐清厚氏女」の字が見える[2]。「城山」と呼ばれる地域には御座源四郎が居城を構えていたと伝わる[14]。
江戸時代には御座村として志摩国英虞郡鵜方組に属し、鳥羽藩の配下にあった[14]。村高は185石余だった[14]。初鰹と鯛を献上していたほか、代銀を受け取って鰹節やエビ、サザエなども納めていた[13]。廻船や御城米積船の破損時の救助の任を負い、鳥羽藩主の内藤忠政が参勤交代する際に船を出していた[13]。当時の御座村に掲げられたキリシタンの制札が残されており[13]、志摩市指定有形文化財として志摩市歴史民俗資料館が保管している[15]。
近代以降
[編集]ござむら 御座村 | |
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廃止日 | 1954年12月1日 |
廃止理由 |
新設合併 御座村・和具町・布施田村・片田村・越賀村 → 志摩町 |
現在の自治体 | 志摩市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 東海地方、近畿地方 |
都道府県 | 三重県 |
郡 | 志摩郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 2.75 km2 |
総人口 |
1,213人 (『志摩町史』、1953年) |
隣接自治体 | 志摩郡越賀村 |
御座村役場 | |
所在地 | 三重県志摩郡御座村 |
座標 | 北緯34度16分32.3秒 東経136度45分55.3秒 / 北緯34.275639度 東経136.765361度 |
ウィキプロジェクト |
町村制が施行されると、御座村は単独で村制を敷き、昭和の大合併・平成の大合併を経て、現在まで大字として存続している[14]。1885年(明治18年)、福地復一は御座村を訪れ、そこで見聞した地域の風習について『東京人類學會報告第2巻』に書き留めている。福地は「住民ノ生業風俗ハ頗ル奇異ニシテ人類學研究ノ材料トモナルベキモノ」として、海女がイソオケ(磯桶)と呼ばれる桶をもって潜水し、石花菜(テングサ)や鹿角菜(フノリ)、和布(ワカメ)、鰒(アワビ)を採取していると記している[16]。更に、赤ちゃんを育てることは、海女として一家を支える女性にとって負担となるので、家族の半数は他の地方から10歳前後の子を養子として迎えている[注 1]ことや、女性が戸主であるため女性の権利が強く、夫に服従することなく、夫は忙しい妻に代わって炊事・掃除・洗濯を行うとも報告している[17]。
1935年(昭和10年)の国勢調査によれば男性100人に対する女性の人口は123人で、漁業地理学者の青野壽郎は「海女といふ職業が、女子を郷土に定住せしめる有力な経済的要因となつてゐることに基く結果の人口現象であると解せられる。」と分析した[18]。1945年(昭和20年)4月7日に御座村は空襲を受け、被害者は対岸の浜島にあった浜島町立診療所へ運ばれ、多くの人命が救われたという[19]。
1950年(昭和25年)の統計では、漁業人口は農業人口をわずかに上回る程度であった[7]。その2年後の1952年(昭和27年)には農業人口が25%の大幅な減少を示した[20]。1967年(昭和42年)、御座と浜島を結ぶ奥志摩フェリーが開設され、自動車を利用した英虞湾の周遊ルートが完成した[21][注 2]。1968年(昭和43年)2月、近畿日本鉄道は海水浴客を誘致することで鉄道旅客の増加を図るべく、伊勢志摩国立公園協会に遊泳可能な海浜を持つ地域に民宿を開設するよう要請、鳥羽市相差町、阿児町国府と並び、御座が候補地として選ばれ、5軒の民宿が開かれた[22]。
2010年(平成22年)2月27日に発生したチリ地震では、津波によって潮流が速くなり、水産物に被害が発生した[23]。
沿革
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により英虞郡御座村成立。大字は編成せず。
- 1896年(明治29年)3月29日 - 答志郡と英虞郡が合併したことにより、志摩郡御座村となる。
- 1954年(昭和29年)12月1日 - 市町村合併により、志摩郡志摩町御座となる。
- 2004年(平成16年)10月1日 - 平成の大合併により、志摩市志摩町御座となる。
地名の由来
[編集]御座とは「爪切不動尊のいらっしゃるところ」の意味であると考えられる[24]。また爪切不動尊の祭事を司る役人が5人であったことから五座→御座となった、爪切不動尊の縁日に出店する座の権利が5つあったことから五座→御座となったとの説も提示されている[25]。
世帯数と人口
[編集]2019年(令和元年)7月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 1]。
町丁 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
志摩町御座 | 219世帯 | 446人 |
人口の変遷
[編集]1746年以降の人口の推移。なお、2005年以後は国勢調査による推移。
1746年(延享3年) | 416人 | [14] | |
1908年(明治41年) | 1,064人 | [14] | |
1960年(昭和35年) | 1,200人 | [26] | |
1980年(昭和55年) | 944人 | [4] | |
2000年(平成12年) | 758人 | [26] | |
2005年(平成17年) | 655人 | [WEB 7] | |
2010年(平成22年) | 574人 | [WEB 8] | |
2015年(平成27年) | 484人 | [WEB 9] |
世帯数の変遷
[編集]1746年以降の世帯数の推移。なお、2005年以後は国勢調査による推移。
1746年(延享3年) | 80戸 | [14] | |
1908年(明治41年) | 191戸 | [14] | |
1960年(昭和35年) | 285世帯 | [26] | |
1980年(昭和55年) | 283世帯 | [4] | |
2000年(平成12年) | 269世帯 | [26] | |
2005年(平成17年) | 255世帯 | [WEB 7] | |
2010年(平成22年) | 242世帯 | [WEB 8] | |
2015年(平成27年) | 208世帯 | [WEB 9] |
学区
[編集]市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[WEB 10]。
番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 志摩市立志摩小学校 | 志摩市立志摩中学校 |
2014年3月31日まで、御座小学校・越賀中学校の学区であった[WEB 11]。御座小学校は志摩町御座にあるが休校中である[27]。
御座漁港
[編集]御座漁港(ござぎょこう)は三重県志摩市志摩町志摩町御座にある、第2種漁港。志摩市が管理し、1953年(昭和28年)3月5日に漁港指定を受けた[WEB 12]。かつてはかつお釣餌料供給基地として知られ、遠洋漁船が多く来航していた[WEB 12]。2009年(平成21年)の統計では属地陸揚げ量は122.8t、属地陸揚げ金額は113百万円であった[WEB 12]。漁獲高は20世紀に比べ減少しており、旧御座漁業協同組合は漁港整備改良事業の地元負担分の支払いにも苦労していた[2]。漁協の前身である漁業組合は1903年(明治36年)6月に結成された[2]。
1956年(昭和31年)の紀行文によると、港には船の到着を待つ子どもたちであふれ、2台の観光バスが客を待っていたという[28]。2012年現在は三重交通による路線バス「60・62系統 御座線」の終点となっている。
御座沖の海水の最低水温は1970年代から1980年代にかけて14℃と安定し、同時期に急速に水温が上昇した尾鷲沖に比べ、藻場の衰退はないと森鐘一らの研究グループは述べている[29]。
観光
[編集]1980年代前後より観光業が発達し、御座白浜海水浴場では夏を中心に海水浴やキャンプに訪れる人が多い[4]。観光業は漁業と並んで重要な産業であるが、2004年(平成16年)発行の『志摩町史』では、「一時はにぎわっていた」と観光業による地域の発展は過去のものとして記述している[30]。
- 御座白浜海水浴場 - 約700mの弧状海岸で、高い透明度の海水が特色[31]。御座の中心集落からは約1kmほど離れ、名古屋方面からの来客が多い[32]。
- 爪切不動尊 - 巡錫中の空海が御座を訪れた際に、爪で石に不動明王を刻んだものとされている[14]。寛政年間に美濃国の僧・霊源禅師が本堂と籠り堂を建立、大正時代に御木本幸吉が不動尊に至る車道を整備した[14]。海上安全・大漁に御利益があるとされ、漁師の信仰が厚い[3]。春は桜が咲き乱れる[3]。
- 潮仏 - 御座漁港から海辺に沿って進むと現れる、海中の地蔵[33]。腰から下の病を癒すとされ、海女の信仰を集める[3][33]。
- キャンプ場 - 志摩観光農園、御座岬オート、はまゆうバンガロー、美浜の各キャンプ場がある。
交通
[編集]陸上
[編集]- 道路
海上
[編集]志摩マリンレジャーにより、以下の定期船が就航する[WEB 13]。
- 賢島 - 浜島航路(2021年9月30日をもって廃止予定)[WEB 14]
- 浜島→御座→賢島
- 賢島→御座→浜島→御座→賢島
- 賢島→御座→浜島→御座
- 御座→浜島
- 廃止航路
- 奥志摩フェリー(御座 - 浜島):1967年 - 1989年[WEB 6]
施設
[編集]- 志摩市立御座小学校
- 三重外湾漁業協同組合志摩支所和具事業所御座
- 志摩市御座コミュニティセンター
- 志摩市立御座保育所
- 御座郵便局
史跡
[編集]- 御座神社 - 旧称は日吉神社で、明治初期に現称となる[14]。御座の鎮守であり、1907年(明治40年)に社宮司社・津島神社・天真名井神社を合祀した[14]。
- 梵海山潮音寺 - 臨済宗南禅寺派の仏教寺院[14]。元亀2年(1571年)の開山[14]。
郷土の人物
[編集]その他
[編集]日本郵便
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]WEB
[編集]- ^ a b “志摩市の人口について”. 志摩市 (2019年7月31日). 2019年8月28日閲覧。
- ^ a b “志摩町御座の郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月15日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- ^ a b 大口秀和. “2014年1月1日 京路山(きょうろうざん)”. 志摩市. 2014年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月8日閲覧。
- ^ 歌詞検索j-lyric.net"鳥羽一郎 志摩半島 歌詞"(2014年1月8日閲覧。)
- ^ a b 英虞湾自然再生協議会"英虞湾年表"<ウェブ魚拓>志摩市農林水産部里海推進室(2012年11月11日閲覧。)
- ^ a b “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ “学校通学区”. 志摩市. 2019年8月28日閲覧。
- ^ “学校通学区”. 志摩市教育委員会事務局学校人権教育課. 2014年3月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年8月6日閲覧。
- ^ a b c 三重県農林水産部水産基盤整備課"御座漁港"(2012年11月11日閲覧。)
- ^ 志摩マリンレジャー"あご湾定期船"(2012年11月11日閲覧。)
- ^ 『浜島〜御座〜賢島定期航路(浜島航路)の廃止について』(PDF)(プレスリリース)志摩マリンレジャー、2021年3月26日。オリジナルの2021年3月27日時点におけるアーカイブ 。2021年3月27日閲覧。
- ^ “郵便番号簿 2018年度版” (PDF). 日本郵便. 2019年6月10日閲覧。
出典・文献
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- ^ a b c d e f g h 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, p. 1422.
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- ^ 森ほか(2006):454ページ
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- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, p. 491.
- ^ ワークス 編(1997):101ページ
- ^ a b 講談社MOOK 2011, p. 61.
参考文献
[編集]- 青野壽郎、「水産統計より観たる紀伊牛島東部沿岸漁村(紀伊半島に於ける漁村の地理學的研究第一報)」『地学雑誌』 1936 年 48 巻 6 号 p. 258-278, doi:10.5026/jgeography.48.258, 東京地学協会
- 村松繁樹、「本邦に於ける風と居構との關係に就いて」 『地学雑誌』 1943年 55巻 11号 p.413-421, doi:10.5026/jgeography.55.413
- 大島襄二、「地理的に見た水産養殖業地域 英虞湾の真珠について」『人文地理』 1955-1956年 7巻 2号 p.102-116,167, doi:10.4200/jjhg1948.7.102
- 山田正一、「酒造経営者短期日酒造講習会」『日本釀造協會雜誌』 1956年 51巻 8号 p.523-526, doi:10.6013/jbrewsocjapan1915.51.523
- 大喜多甫文, 「志摩地方における海女漁村の生産形態」『人文地理』 1973年 25巻 3号 p.344-359, doi:10.4200/jjhg1948.25.344
- 淡野明彦、「沿岸域における民宿型観光地域の形成 三重県鳥羽市相差地区の事例」『地理学評論 Ser. A』 1985年 58巻 1号, p.19-38, doi:10.4157/grj1984a.58.1_19
- 淡野明彦、「沿岸域におけるリゾート型観光地域の形成」『人文地理』 1986年 38巻 1号 p.7-25, doi:10.4200/jjhg1948.38.7
- 南川幸、「東海地方の故郷文化を支える植生と植物相」『芝草研究』 1990-1991年 19巻 1号 p.65-84, doi:10.11275/turfgrass1972.19.65
- 森鐘一, 熊谷明生, 金澤剛、「熊野灘における藻場の繁茂と衰退海域に関する研究」『環境工学研究論文集』 2006年 43巻 p.449-457, doi:10.11532/proes1992.43.449
- 今井健太郎・行谷佑一・都司嘉宣 ほか、「2010年チリ中部地震による関東・東海地方沿岸の津波痕跡調査」『土木学会論文集B2(海岸工学)』 2010年 66巻 1号 p.1351-1355, doi:10.2208/kaigan.66.1351
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 24 三重県』角川書店、1983年6月8日。ISBN 4-04-001240-2。
- 西城利夫"ふるさと再発見 志摩市歴史民俗資料館と志摩国 自然と人の暮らしを紹介"中日新聞 2012年8月18日付朝刊、伊勢志摩版16ページ
- 志摩町史編纂委員会編 編『志摩町史 改訂版』志摩町教育委員会、2004年9月1日。 NCID BA70656984。
- 志摩町役場企画課『志摩町町勢要覧 町制50周年記念号 〜磯笛と潮騒のまちを記録する〜』志摩町役場企画課、2004年7月、121p.
- 中村精貮 編『志摩の地名の話』伊勢志摩国立公園協会、1951年11月3日。 NCID BN08804404。
- 浜島町史編さん委員会 編『浜島町史』浜島町教育委員会、平成元年10月1日、1292pp.
- 福地復一(1886)"志摩國御坐崎村ノ習俗"東京人類學會報告(日本人類学会).2 (9):16-18.
- 平凡社地方資料センター 編『「三重県の地名」日本歴史地名大系24』平凡社、1983年5月20日。ISBN 4-58-249024-7。
- 三重県教育委員会『学校名簿 平成26年度』三重県教育委員会、平成26年、52p.
- 講談社MOOK 編『伊勢神宮参宮公式ガイドブック 辛卯版』講談社、2011年5月25日。ISBN 978-4-06-389562-9。
- 議会広報特別委員会 編 編『しまし議会だより 第60号』志摩市議会、2019年11月15日、26頁 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 「御座」あれこれ - 「御座学」勉強会
- 志摩町御座 - 三重県農林水産部水産基盤整備課
- 御座白浜観光組合
- 高木秀和、「志摩市御座における漁村の村落構造と漁法との関係」 『人文地理学会大会 研究発表要旨』 2008年 人文地理学会大会 セッションID:201, doi:10.11518/hgeog.2008.0.201.0