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後藤靱雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
後藤 靱雄
名前
愛称 ゴットン[1]
カタカナ ゴトウ ユキオ
ラテン文字 GOTO Yukio
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 不詳
出身地 兵庫県武庫郡住吉村(現:神戸市
没年月日 1976年
選手情報
ポジション DF[2]
ユース
日本の旗 関西学院中学部
日本の旗 関西学院大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
日本の旗 関学クラブ
代表歴2
1930-1934 日本の旗 日本 4 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
2. 2016年3月4日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

後藤 靱雄(ごとう ゆきお、生年不詳 - 1976年)は、兵庫県武庫郡住吉村(現:神戸市)出身[3]サッカー選手。ポジションはフルバック(現在のセンターバック)。

来歴

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父はベルギー人であり、倚松庵など住吉村一帯に広い屋敷を所有する家柄であった[3]。また、当時としてはかなりの長身で、特に空中戦とキック力に長けた選手だった[2]

関西学院大学在学中はサッカー部に所属し、斎藤才三が同級生であり、1929年にサッカー部の主将を務めた。また、関学クラブ(現役学生およびOBによる合同チーム)の一員として、1929年10月に開催された明治神宮大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会)および翌1930年2月のア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)の優勝に貢献した。

1930年5月に開催された第9回極東選手権競技大会サッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など2試合に出場した[4]

大学卒業後の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会の日本代表に選出。主将として2試合に出場した[5]。1947年には天覧試合となった東西対抗では監督としてコーチの大谷四郎と共に関西チームの指揮を取った。

また、後藤は1936年11月から1943年8月まで倚松庵を作家の谷崎潤一郎に賃貸したが、立ち退き要求から谷崎が実際に退去に至るまで1年間を要したエピソードがある[3]

1976年に死去したと伝わっている[3]

所属クラブ

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代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 4試合 0得点(1930-1934)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1930 2 0 0 0 2 0
1931 0 0 0 0 0 0
1932 0 0 0 0 0 0
1933 0 0 0 0 0 0
1934 2 0 0 0 2 0
通算 4 0 0 0 4 0

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1930年05月25日 日本の旗東京都 明治神宮外苑競技場  フィリピン ○7-2 鈴木重義 極東選手権
2. 1930年05月29日 日本の旗東京都 明治神宮外苑競技場  中華民国 △3-3 極東選手権
3. 1934年05月13日 フィリピンの旗マニラ  オランダ領東インド ●1-7 竹腰重丸 極東選手権
4. 1934年05月20日 フィリピンの旗マニラ  中華民国 ●3-4 極東選手権

参考文献

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  • 後藤健生『日本サッカー史・代表篇』双葉社、2002年11月。ISBN 9784575294897 

出典

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  1. ^ 賀川浩. “昭和の大先達・竹腰重丸(中)”. 賀川サッカーライブラリー. 2008年9月16日閲覧。
  2. ^ a b c 『歴代日本代表パーフェクト名鑑 サッカーマガジン別冊夏季号』 ベースボールマガジン社、2007年
  3. ^ a b c d 「谷崎潤一郎の阪神間転居(後編)」(PDF) p.24、1982年9月21日(西宮ロータリークラブ例会)、2015年3月4日閲覧
  4. ^ 第9回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2016年3月4日閲覧。
  5. ^ 第10回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2016年3月4日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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