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張孝栘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
張孝イから転送)
張孝栘
プロフィール
出生: 1881年光緒7年)[1][2]
死去: 不詳
出身地: 清の旗 湖北省武昌府鄂城県[1][2]
職業: 司法官・法学者
各種表記
繁体字 張孝栘
簡体字 张孝栘
拼音 Zhāng Xiàoyí
ラテン字 Chang Hsiao-I
和名表記: ちょう こうい
発音転記: ヂャン シアオイー
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張 孝栘[注 1](ちょう こうい、1881年 - 没年不詳)は中華民国の司法官・法学者。棣生。別号は逖省

経歴

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日本に留学し、1906年光緒32年・明治39年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した[3]。帰国後は京師法政学堂及び京師法律学堂の教習(教官)となる。以後、修訂法律館纂修、憲法編査館科員、北京政府大理院推事を歴任した。1915年民国4年)、総検察庁首席検察官に任命される。1928年(民国17年)4月、総検察庁検察長暫定代理となった。その後、国立北平大学法学院教授、国立北京大学法律系講師、河北省立法商学院法律系教授を歴任している[1]

1937年(民国26年)12月、北京中華民国臨時政府が成立すると、張孝栘もこれに参与する。翌1938年(民国27年)2月19日、最高法院(院長:董康)検察署検察長に任命された[2][4]

1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。臨時政府最高法院も汪兆銘政権の最高法院華北分院へ改組され[注 2]、同年5月28日に張孝栘が分院院長として任命された[5]。以後、1945年(民国34年)8月の汪兆銘政権崩壊までその地位にあった[6]。その後の消息は不明である。

脚注

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注釈

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  1. ^ 徐主編(2007)、1797頁や郭主編(1990)、1884-1885頁、尾崎監修(1940)、211頁は「張孝移」と表記している。
  2. ^ 臨時政府時代と同様に、事実上は華北政務委員会に属する立場にあった。

出典

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  1. ^ a b c 徐主編(2007)、1797頁。
  2. ^ a b c 尾崎監修(1940)、211頁。
  3. ^ 早稲田大学校友会(1934)、460頁。
  4. ^ 臨時政府令、令字第109号、民国27年2月19日(『政府公報』第5号、民国27年2月21日、臨時政府行政委員会公報処、無頁)。
  5. ^ 国民政府令、民国29年5月28日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、3頁)。
  6. ^ 郭主編(1990)、1884-1885頁。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4 
  • 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 第12巻』創元社、1940年。 
  • 『早稲田大学校友会会員名簿 昭和十年用』早稲田大学校友会、1934年。