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張喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

張 喜(ちょう き、生没年不詳)は、後漢の人物。張嘉(ちょう か)とも。汝南郡細陽県の人[1]張耳の末裔で[2]、後漢初期の名臣張充の六世の孫にあたる。曾祖父は光禄勲張酺中国語版(字は孟侯)。祖父は張蕃。父は張磐[3]。兄は司空張済赤壁の戦いののちに曹操孫権に攻められた合肥の援軍に派遣した将軍の張喜(張憙)とは別人である。

略歴

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張喜は当初、衛尉に任じられ、初平4年(193年)12月27日に趙温中国語版に代わって司空に任じられた[4]。その後献帝と共に長安を出て許都にたどり着いた。

建安元年(196年)9月に張喜は太尉楊彪と同時に司空の座を退き、その後任の司空の座に曹操が就いた[5]

参考文献

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脚注

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  1. ^ 『後漢書』張酺伝によると、宣平侯張敖(張耳の子)の庶子の張寿は池陽侯(細陽県)に封じられ、後に廃されたため代々汝南郡細陽県に住居した、とある。
  2. ^ 後漢書』霊帝紀および張酺伝
  3. ^ 『後漢書』張酺伝が引く華嶠の『漢書』(班固の著書とは別)による。
  4. ^ ウィキソース出典 後漢書 巻9 初平四年十二月の項 (中国語), 後漢書/卷9, ウィキソースより閲覧。 
  5. ^ ウィキソース出典 後漢書 巻9 建安元年九月の項 (中国語), 後漢書/卷9, ウィキソースより閲覧。