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弥姫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

弥姫(いよひめ、寛政3年12月28日1792年1月21日) - 文政7年8月16日1824年9月8日))は、薩摩藩島津斉興の正室。島津家に嫁いでから周子(かねこ)と改名[注釈 1]。院号は賢章院殿玉輪恵光大姉。

家系

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父は鳥取藩池田治道。母は伊達重村の娘・生姫。両親の婚姻関係により、弥姫は徳川家康伊達政宗織田信長毛利元就らの血を引いている。異母兄に池田斉邦池田斉稷。子に島津斉彬池田斉敏候姫山内豊熈室)。

異母姉の姚姫佐賀藩主・鍋島斉直に嫁ぎ、名君と誉れ高い鍋島直正を産んでいる。そのため子の斉彬と直正は従兄弟ということとなる。

経歴

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上述のように島津家に嫁いだ時点で改名しているが、以後「弥姫」で統一する。

寛政3年12月28日(1792年1月21日)に江戸重洲町の鳥取藩邸で誕生した。母・生姫は弥姫を出産後、そのまま死去した。

その後の弥姫は薩摩藩主・島津斉興と婚約、池田家から島津家へ輿入れした。弥姫は嫁入り道具として『四書五経』、『左伝』、『史記』、『漢箱』を大量に持ち入り、薩摩藩の奥女中や家臣らを驚かせた(「賢章院遺芳録」による)。

弥姫は文化6年(1809年)に、斉興の長子として斉彬を出産した。正室の初子が男児であることは、諸藩に誇れることでもあったため、弥姫の男児出産は薩摩藩に大いなる喜びをもたらした。その後も文化8年(1811年)に池田斉敏、文化12年(1815年)に候姫、文化14年(1817年)諸之助、文政2年(1819年)に珍之助を産む(「島津氏正統系図」より)。諸之助、珍之助は早世したものの、息子の斉彬、斉敏、娘の候姫は無事成長した。後に二男の斉敏は、実家の親戚筋の岡山藩池田家を継ぐ。

弥姫はかなりの才女であり、和歌や漢文の作品を多く残している。また、薩摩藩の家臣から「賢夫人」と称され、尊敬されるようになる。子育ても乳母に任せず、自ら母乳を与え育て、自身が得意である『左伝』、『史記』、『四書五経』を子供たちに自ら説いて聞かせていたという。この教育が功したのか、後に斉彬と斉敏は「名君」と称され、候姫も母と同じく「賢夫人」と称され、家臣、領民から尊敬される。

しかし、斉彬をはじめとした子供たちは男子に恵まれなかった。他方、斉興の側室お由羅の方が産んだ忠教(のちの島津久光)は順調に成長した上、多くの男子を儲けたこともあり、後に弥姫の子・斉彬と、お由羅の子・忠教との間で家督争いが勃発し、「お由羅騒動」に発展していく。

弥姫はその騒動の前、文政7年(1824年)に死去した。享年34。弥姫が健在であれば、後のお由羅騒動は起きなかったとも言われ、その死を誰もが惜しんだという。

脚注

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注釈

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  1. ^ 大名家では正室は嫁いでから改名する。また『島津斉彬』(芳即正著)では「周子(別名弥姫)」としている。

参考文献

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  • 芳即正著「島津斉彬」(吉川弘文館
    なお、同書の弥姫についての記載は「賢章院夫人遺芳録」を参考にしている。
  • 「島津斉彬傳」(岩崎育英奨学会)
  • 「島津氏正統系図」(島津家資料刊行会)