コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

式道候

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

式道候(しきどうこう)は、紀元前3世紀から紀元4世紀の中国で、皇帝の外出時に先行することを役目とした官職である。複数いるときは式道左候式道右候式道中候などと呼び分けた。

歴史

[編集]

[編集]

史書にの式道候について記述はないが、前漢の制度は多く秦のものを引き継いでいるので、秦にもあった可能性は高い。

前漢

[編集]

前漢では、式道左候、式道右候、式道中候の3人がいた[1]秩石は600石[2]。皇帝が外出するときに先行し、道を清めた。式道候が戻り、麾をもって宮門で合図すると、そこで宮門が開き、皇帝の出御となった[2]

候丞が次官としてついた[1]。式道左候丞、式道右候丞、式道中候丞であろう。

はじめ中尉の属官(部下)で、太初元年(紀元前104年)に中尉が執金吾と改称すると執金吾に属した[1]

後漢

[編集]

後漢では常設の官ではなくなり、必要なとき郎(郎官)を1名兼任させ、事がおわるとやめさせた[2]。また、執金吾には属さなかった[2]

[編集]

三国時代にあったかはわからないが、西晋には式道左候と式道右候の2名がいた。西晋の皇帝が外出するときの行列について述べた『晋書』「中朝大駕鹵簿」によれば、先象車(象が牽く車)と鼓吹13人が先頭になり、次に騎馬の静室令、次に左右に分かれた2騎の式道候が続いた[3]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』103頁。
  2. ^ a b c d 『続漢書』(『後漢書』に合わさる)百官志2、執金吾。早稲田文庫『後漢書』志2の511 - 512頁。
  3. ^ 『晋書』、巻25、志第15、輿服、中朝大駕鹵簿。

参考文献

[編集]
  • 班固著、『漢書
    • 小竹武夫訳『漢書』1から8、筑摩書房、ちくま学芸文庫、1998年。
    • 大庭脩監修、漢書百官公卿表研究会『『漢書』百官公卿表訳注』、朋友書店、2014年。
  • 司馬彪続漢書』(范曄『後漢書』に合わさる)
    • 渡邉義浩訳、劉昭注『後漢書』志一、二(早稲田文庫)、早稲田大学出版部、2023年、2024年。
  • 房玄齢李延寿他『晋書』。