式道候
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式道候(しきどうこう)は、紀元前3世紀から紀元4世紀の中国で、皇帝の外出時に先行することを役目とした官職である。複数いるときは式道左候、式道右候、式道中候などと呼び分けた。
歴史
[編集]秦
[編集]史書に秦の式道候について記述はないが、前漢の制度は多く秦のものを引き継いでいるので、秦にもあった可能性は高い。
前漢
[編集]前漢では、式道左候、式道右候、式道中候の3人がいた[1]。秩石は600石[2]。皇帝が外出するときに先行し、道を清めた。式道候が戻り、麾をもって宮門で合図すると、そこで宮門が開き、皇帝の出御となった[2]。
候丞が次官としてついた[1]。式道左候丞、式道右候丞、式道中候丞であろう。
はじめ中尉の属官(部下)で、太初元年(紀元前104年)に中尉が執金吾と改称すると執金吾に属した[1]。
後漢
[編集]後漢では常設の官ではなくなり、必要なとき郎(郎官)を1名兼任させ、事がおわるとやめさせた[2]。また、執金吾には属さなかった[2]。
晋
[編集]三国時代にあったかはわからないが、西晋には式道左候と式道右候の2名がいた。西晋の皇帝が外出するときの行列について述べた『晋書』「中朝大駕鹵簿」によれば、先象車(象が牽く車)と鼓吹13人が先頭になり、次に騎馬の静室令、次に左右に分かれた2騎の式道候が続いた[3]。
脚注
[編集]- ^ a b c 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』103頁。
- ^ a b c d 『続漢書』(『後漢書』に合わさる)百官志2、執金吾。早稲田文庫『後漢書』志2の511 - 512頁。
- ^ 『晋書』、巻25、志第15、輿服、中朝大駕鹵簿。