広江八重桜
広江八重桜(ひろえやえざくら、1879年(明治12年)3月11日 - 1945年(昭和20年)10月8日)は、日本の俳人。
経歴
[編集]島根県能義郡赤江村大字中津(現・安来市東中津町)に生まれる[1]。
本名・直治。蚕豆庵(さんとうあん)と号した。当時の大地主である広江忠四郎の長男。夫人コノとの間に二男二女がある。晩年に村内に郵便局を開設したが、すべて次男まかせであったという。
俳句は中学二年頃からはじめ、大谷繞石の指導する碧雲会に参加、正岡子規選の『日本』俳壇や『ホトトギス』に投句。非常な多作家で、子規は「八重桜を以って第一の多作者となす。一季優に千句を下らざるもの数年」と評した。
のち河東碧梧桐に師事、新傾向俳句を詠み「海紅」の選者も務めたが、中塚一碧楼の義弟、中塚響也と「渚」を創刊後は定型に戻った[1]。
研究
[編集]筑摩書房の現代日本文学全集の『広江八重桜集』は、八重桜の弟子で、後に『石楠』の最高幹部となった福島小蕾がまとめたものである。島根大学名誉教授、伊沢元美編の『島根文学地図』(昭和43年3月15日、今井書店刊)には、八重桜がくわしく紹介されている。俳誌『出雲』主宰、桑原視草の昭和56年度俳人協会賞(評論部門)を受賞した『出雲俳壇の人々』(昭和56年8月10日、だるま堂書店刊)にも八重桜は紹介されている。
作品集としては、『続春夏秋冬』と『日本俳句鈔』第一集から、まとめて『俳諧雑誌』(大八・三)に載せられた『八重桜句鈔』と『現代日本文学全集九一・現代俳句集』(筑摩版)に収められているものがあるが、句集はない。
俳風
[編集]俳風は、新傾向運動の初期の、写生を徹底しようとした時期の特色を持続し、景の中の一点、一ヶ所を鋭くみつめるゆき方をとっており、意味も他の新傾向俳人よりは明らかなものが多い[2]。
彼女踏めばこの庭萌ゆる雪淡し
雪天に欠伸をするや檻の鷲
脚注
[編集]参考文献
[編集]日野雅之著『広江八重桜と山陰の明治俳人』よなごプレス社、1992年、39、40、41、42頁。