コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

広東文革虐殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
広東文革虐殺
広東省革命委員会成立大会(1968年)
場所 中華人民共和国の旗 中華人民共和国広東省
日付 1968年7月-1968年10月
標的 黒五類
死亡者 1,000人-8,000人(推定)
犯人 中国共産党
革命委員会 (文革)中国語版
テンプレートを表示
広州市荔湾区沿い、江西路に位置する粵海関大楼。大楼の多くの部分が文化大革命期間に破壊され、アルファベット、建築家と建築者の氏名などはコンクリートで覆われた。時計台で流されていた当時の世界的流行曲『ウェストミンスターの鐘』は、『東方紅』に改められた[1][2]

広東文革虐殺(かんとんぶんかくぎゃくさつ)は、文化大革命の期間中(1966年-1976年)に中華人民共和国広東省で発生した一連の虐殺事件である。

撥乱反正中国語版及び改革開放以降に公開された57県の県誌によれば、文革の期間中、広東省下の80県において、28県で集団虐殺が発生し、6県で1,000人以上が殺され、そのうち陽江大虐殺中国語版での陽春県(2,600人以上が死亡)が最も深刻であった。現在わかっている全ての虐殺が発生した県の異状死の平均人数は278人であった[3][4][5][6][7]。他にも、広東の一部都市で虐殺事件が発生している。例えば、広州労働改造犯絞殺事件中国語版では少なくとも187-197人が死亡した[8][9][10]

広東文革虐殺事件は主に1968年7月から10月の間にかけ、広東省革命委員会中国語版、各県革命委員会 (文革)中国語版などの機構の指導によって発生した[3][6]。広東省は文革で虐殺が最も深刻な省のうちの一つであり、広西虐殺と一定の連動があった。集団虐殺は主に二種類に分類できる。ひとつは「四類分子(地主・富農・反革命分子・破壊分子)」及びその親類の虐殺であり、もう一方は政治的迫害による虐殺である[3][6][7][11][12][13]。当時広東省の行政区に属していた海南島でも大虐殺事件が発生した。現地の軍隊と民兵の主導により、そのうち儋県大虐殺では700人以上の死亡者を出した[6][7][14]。文革終了後の撥乱反正(乱を撥めて正を反す)、改革開放の時代、中共中央中共広東省委員会中国語版は一部の虐殺事件の被害者の名誉回復を行い、1980年1月には広東省革命委員会を正式に廃止、広東省人民政府中国語版が再設置された[15][16][17]

歴史的背景

[編集]

両派による武装闘争

[編集]

1966年5月、毛沢東らは中国大陸において文化大革命を発動した。1967年1月より、広東省各党・政権が奪権運動中国語版で倒れると、機能不全に陥り、社会は乱れた。3月15日、毛沢東は広東における軍政を実施し、黄永勝軍事管制委員会中国語版主任に任命された[18][19]。1967年、広東省の造反派中国語版群衆連盟(紅旗派中国語版)と軍政を支持する派閥(東風派中国語版)の間で多数の武装闘争が発生した。当時の周恩来国務院総理らは4月から11月の期間何度も調停を行い、11月初めには広東省で半月以内に「革命委員会 (文革)中国語版」を成立させるよう求めた[3][19][20][21][22]。4月17日、周恩来は広州を訪れ、18日の両派群衆会議上で「中央文革小組中国語版」による論調を発表、「東風派」(「総派」とも称する。)を「保守的に偏った群衆組織」であると批判し、「紅旗派」(「旗派」とも称する。)こそが「革命造反派」であるとした[19][22]。ただし、19日、周恩来は北京に戻った後に東風派に対する論調を「革命組織」であって保守組織ではない、と改めている[19][22]。後に、黄永勝らは両派群衆やその他群衆組織の指導者と座談会を重ねて意思疎通し、「革命大連合」の実現を希望した。しばらくの間広東省ないでは大規模な動乱が発生しなかったが、7月以降再び大規模な武装闘争が発生した(例えば、7月23日の中正紀念堂大武闘、広州の「820殺人事件」)[19][22][23][24][25]。11月12日、中共中央、国務院、中共中央軍事委員会、中央文革小組は『広東問題に関する決定』を布告、「広東省革命委員会」の成立を要求した。年末、広州地区の二大派閥が大連合を実現したものの、各組織はなおもそれぞれの旗印を保持していた[19][22][26]

広東省革命委員会

[編集]

1968年2月、広東省で革命委員会 (文革)中国語版が成立した。広州軍区司令の黄永勝が革命委員会主任を務め、黄本人は保守的な「東風派」を支持した[27][28]。しかし、「紅旗派」を中心とする組織の抵抗が未だ続いており、秩序の回復は行われず、続く3ヶ月で紅旗派は多数の大規模な武装闘争を起こした[3][22][26]。これと共に5月、毛沢東の支持のもとで階級隊伍清浄化中国語版運動が全国規模で展開され、僅か広州市だけでも少なくとも数万人が迫害を受け、迫害で死亡した。特に帰国華僑とその親類、海外と関係のある人が犠牲となった[24][25][29]

1968年6月17日、広東、広西は「反共救国団」なる巨大な陰謀集団を一斉摘発したとしている。そのうち広西にあるのは「分団」であり、本部は広東省首府の広州に存在したという[3][12]。7月25日、周恩来と康生が広西の群衆代表と接見した際、「反共救国団」に対する見解を認め、「反共救国団」と広西の「四・二二」、広東の「紅旗派」は共謀していると表明した[3][12]。1968年7月から、広東省革命委員会と軍は中共中央の2つの指示(『七・三布告中国語版』・『七・二布告中国語版』)を「紅旗派」に対する武器とした。それに伴い広東各地で集団虐殺が激化し、広西では広西虐殺が発生した[3][12][13][24][30]。1968年7月から10月の間、広東省革命委員会によって、各県革命委員会が指導する集団虐殺は最高潮に達した[3][6][24]陽春県では8月18日から半月も経たないうちに、1700人以上が殺された。そのうち、全水公社では8月15日から25日の間で、「集団殺人」により663人が亡くなった[24]

具体的な事件

[編集]

陽江大虐殺

[編集]
陽江市の地図。陽江県は文革の後で陽江市に昇格し、陽春県のいくつかの県を統合した。[31]

陽江大虐殺、またの名を陽江「乱打乱殺事件」は、広東省の陽江で発生した。中国共産党陽江市委員会党史研究室のデータによると、少なくとも3,573人が異状死した[4][5][6]。具体的には、

広州労働改造犯絞殺事件

[編集]

広州労働改造犯絞殺事件中国語版は1967年8月から約一週間にかけて広州市で発生した[8][9][10][33]。この事件は、粤北などの地域の公安が監獄の犯人を釈放し、これらの労働改造犯が広州で略奪を働こうとしているという噂に端を発した。自衛を名目とした広州の民衆によって極端な暴力行為を引き起こされた[8][9][33]。学者の調査によれば、この事件ではあわせて187人から197人が異状死した(一説によれば300人以上[34])、死者の多くは広州などの一般住民であり、打ち殺された人の多くは広州の様々な街道の両側の樹や、街路の電線などに吊るされた[8][9][10][33]

反彭湃烈士事件

[編集]
広東省海豊県(1963年)。

反彭湃烈士事件、または反彭湃事件は、文化大革命期に広東省海陸豊地区で発生した重大な冤罪事件[15][35][36][37][38]である。この事件中の虐殺によってあわせて160人以上が死亡し、800人以上が障害が残るほど殴られたり重症を負い、3,000人が負傷した[15][35]。反彭湃事件の主な対象は「革命烈士」彭湃中国語版の遺族、親族及び関係者であり、この期間彭湃は「叛徒」と認定され、90歳を超える母親が迫害を受けた。甥の彭科、従弟の彭竞、甥のいとこの彭株は殺害され、彭科は斬首されてから三日間民衆に晒された[35][36][39][40]。大虐殺は半月間継続した[35]。1968年8月、彭湃の子、彭洪が秘密裏に殺された[37][41]。ただし学者の指摘によれば、彭湃は以前、海陸豊の農民運動を指導しており、海陸豊ソビエト中国語版の時代に極左「赤色テロ」を起こし、暴力と殺戮が行われ、少なくとも1000名以上の地主が殺されている。これが文革期の現地住民による彭湃家族への逆襲を引き起こした[38][42][43]

広東海豊県(現在は汕尾市下)の『海豊県誌』では、文革期全県で1,948人が吊し上げ、監禁され、367人が異状死した[44]。武装闘争事件で100人以上が死亡し、3,000人以上が負傷し、そのうち400人以上に後遺症が残った[3]

儋県大虐殺

[編集]

文革の期間、海南島に位置する儋県(現在の儋州市)、東方県などの地区で大虐殺が発生した。当時この地区は広東省の行政管轄区域に属していた[6][7][14][45][46]。1967年3月、現地の軍事管制委員会は県に存在した3つの大型群衆組織を「反革命組織」であると宣言した[14]。1968年4月、「海南地区革命委員会」が成立した[45][47][48]。8月、海南島の野戦軍、地方部隊(砲兵を含む)、民兵は中共中央が発出した『七・三布告』を利用し、儋県のそれぞれの人民公社国営農場及び198の革命老区に対し、「反革命組織」に対する武力鎮圧と放火殺人を行った[6][7][14]。最終的に儋県ではあわせて5万人以上が拘束され、あわせて500以上の私設監獄が設置され、700以上の民家が焼かれ、数千人が障害を負った。大虐殺によってあわせて700人以上が死亡した[6][7][14]

澄海文革虐殺

[編集]

文革期、汕頭地区、澄海県の革命委員会が現地幹部の余錫渠、林興勝らが「余・林反革命集団」として打倒された。1968年7月23日、澄海県革命委員会、軍事管制委員会は全県武装民兵を徴集し、中国人民解放軍野戦部隊と共同し、余・林ら現地幹部を支持する城、永新、槐沢、建陽、上巷、蘭苑、程洋岡などの大隊を攻撃した。25日前後に占領し、現地幹部と群衆68人が打ち殺された。25日午前、80人以上が澄海県治安式部に連行され、門前で17人が打ち殺された。8月中に、澄海県の組織が3回の大型の吊し上げ大会が行われ、幹部と群衆28人が打ち殺された。1968年9月から1969年4月にかけて、澄海の階級隊伍清浄化中国語版運動では全県であわせて7,691人が晒し上げられ、381人が死亡した[49]

その他の地区

[編集]
広東省の行政区
文革期に虐殺が深刻であった広東梅州市

文革期、陽江大虐殺における陽春県陽江県の他に、広東五華県廉江県梅県広寧県連県における大虐殺事件では1,000人以上が死亡した[3][6][11]。アメリカスタンフォード大学教授のアンドリュー・G・ウォルダーとカリフォルニア大学アーバイン校教授の蘇陽による2003年の研究結果では、このいくつかの県の県誌に記載されている異状死の人数の内訳は以下の通り[11]

所属する市 異状死の人数
陽春県 陽江市 2,600
五華県 梅州市 2,136
廉江県 湛江市 1,851
梅県 梅州市 1,403
広寧県 肇慶市 1,218
連県 清遠市 1,019

これ以外にも広東のその他県市で虐殺事件が発生している。

  • 広東曲曲江県(現在の韶関市)の『曲江県誌』は次のように記載している。「(1968年)1月、樟市公社で深刻な違法殺人が発生した。全公社の13大隊で無差別殺人行為が発生し、あわせて149人が殺害された。」[3]
  • 広東信宜県(現在の信宜市)の『信宜県誌』は次のように記載している。「池洞、鎮隆と北界の3つの公社で大量暴行殺人の現象が発生し、29人が死んだ。」[3]

死亡者数

[編集]

虐殺のメカニズムと動機について、蘇陽は、広西・広東両省農村地区の文革虐殺に関する研究を通じて書籍『文革時期の中国農村の集団殺戮』中で、いわゆる「共同体型(community model)」を考案し集団殺戮行為を解釈し、主流のジェノサイド研究中で採用される「国家政策型(state policy model)」に挑戦した[50][51]。一方で書籍『文革大虐殺中国語版』において宗永毅は、「文革中の虐殺と暴力は、大概は一種の国家機器の行為であり、政権の公民に対する直接的な殺戮であった[52]。」と主張している。

文化大革命の期間で、広東省の異状死による死者数は全国でも上位である。

  • 2016年、厳飛(現清華大学教授)[53])の研究によれば、県誌データベースによると、広東省の各県平均の異状死は299人であり、全国第5位である[54]
  • 2006年、カリフォルニア大学アーバイン校教授の蘇陽が行った研究によれば、文革期に広東省下にあった80県のうち、撥乱反正、改革開放以降に公開された57県の県誌において、各県の被害者平均人数は6,788.6人であり、そのうち死亡者の平均が311.6人(虐殺による死亡含む)、負傷者の平均は28.1人であった[3]
  • 2003年、アメリカスタンフォード大学教授のアンドリュー・G・ウォルダとカリフォルニア大学アーバイン校教授の蘇陽が行った研究によれば、広東省の下にある114県のうち、61県の公開の県誌では各県の異状死の死亡者数の平均は290人で、全国で3番目に多く、全省ではあわせて33,060人が死亡した[11]

そのうち、広東文革虐殺事件において、

  • 上述した2006年の研究によれば、広東省の28県で集団虐殺(10人以上の死亡)が発生し、平均死亡者数は278人、合計して7,784人が死亡した[3][55]。しかし研究者は、これらの県誌の編集者の独自研究や情報収集不足がある可能性があり、ゆえに県誌に記載される人数は実際に死亡した人数の最低の推測数であると見なしている[3][11][55]
  • 虐殺事件が比較的少なかった広東省下の都市のうち、広州労働改造犯絞殺事件では少なくとも187人から197人が死亡した[3][8][9][10]
  • 文革の時代、海南島は広東省の管轄下にあり、そのうち儋県ではあわせて700人以上が死亡した[6][14]

その後

[編集]

1971年9月、「林彪事件」が勃発した。広東省革命委員会主任の黄永勝は、林彪政治局と軍の盟友から職を追われると、逮捕された[56][57]。1973年8月、黄は党除名処分を受け、隔離され審査を受けた[57][58]。1976年9月、毛沢東が死亡すると、同年10月、四人組が打倒され、文化大革命は終結した。

撥乱反正中国語版の時代、1978年末から1979年初めにかけて、中共中央支持のもとで時の広東省委員会書記習仲勲らが「反澎湃烈士事件中国語版」の名誉回復を行った[15][35][37]。1979年12月、広東省五期人大二次会議が広州で開催され、広東省革命委員会の廃止と、広東省人民政府中国語版の再設置を決定し、1980年1月に正式に施行した[16][17]。1981年,黄永勝が「林彪・江青反革命集団」の主犯の一人とされ、懲役18年、公民権剥奪5年に処され、1983年4月26日、青島で死亡した[56][57][59]

脚注

[編集]
  1. ^ 大钟沉默20年能否天天再敲响?” (中国語). 広州図書館. 『広州日報』 (2010年5月28日). 2022年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  2. ^ 广州海关大楼下周搬迁 曾是国内海关建筑样板” (中国語). 新浪. 『信息時報』 (2006年9月8日). 2022年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 蘇陽 (2006年). ““文革”中的集体屠杀:三省研究”. 当代中国研究. 2020年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  4. ^ a b c d e 陳宝徳; 李学超. “阳江“乱打乱杀事件”始末” (中国語). 『炎黄春秋』. 2020年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  5. ^ a b c d e 楊継縄 (2017-07-04) (中国語). 天地翻覆: 中国文化大革命历史. 天地图书. オリジナルの2020-06-21時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200621000920/https://books.google.com/books?id=4d4qDwAAQBAJ&pg=PT523&lpg=PT523&dq=%E9%98%B3%E6%B1%9F%E5%A4%A7%E5%B1%A0%E6%9D%80&source=bl&ots=225ERAsX8b&sig=ACfU3U244biR_qCBVLKQ00eByyUTfBHeuw&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwj7jMqc4dLoAhWYHM0KHc_pAA8Q6AEwAXoECAsQKQ#v=onepage&q=%E9%98%B3%E6%B1%9F%E5%A4%A7%E5%B1%A0%E6%9D%80&f=false 2024年10月27日閲覧。 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 宋永毅 (2011年8月25日). “Chronology of Mass Killings during the Chinese Cultural Revolution (1966-1976)” (英語). パリ政治学院(Sciences Po). 2020年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  7. ^ a b c d e f Hays, Jeffrey. “CULTURAL REVOLUTION: DEATH TOLL, FIGHTING AND MASS KILLING” (英語). Facts and Details. 2020年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  8. ^ a b c d e 張志慎 (2014年6月11日). “揭秘:“文革”期间广州的“打劳改犯”事件” (中国語). 『羊城晚報』. 2020年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  9. ^ a b c d e 譚加洛. “文革中广州街头“吊劳改犯事件”调查” (中国語). 香港中文大学. 『炎黄春秋』. 2020年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  10. ^ a b c d 神秘的“打劳改犯”之谜” (中国語). 搜狐 (2016年11月2日). 2020年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  11. ^ a b c d e Walder, Andrew G.; Su, Yang (2003). “The Cultural Revolution in the Countryside: Scope, Timing and Human Impact”. The China Quarterly (173): 74–99. ISSN 0305-7410. オリジナルの2020-05-15時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200515023108/https://www.jstor.org/stable/20058959 2024年10月27日閲覧。. 
  12. ^ a b c d 楊継縄 (2017-07-04) (中国語). 天地翻覆: 中国文化大革命历史. 天地図書. オリジナルの2020-07-24時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200724091453/https://books.google.com/books?id=4d4qDwAAQBAJ&newbks=0&printsec=frontcover&pg=PT470&dq=%E5%8F%8D%E5%85%B1%E6%95%91%E5%9B%BD%E5%9B%A2+%E5%B9%BF%E4%B8%9C%E6%80%BB%E9%83%A8&hl=en 2024年10月27日閲覧。 
  13. ^ a b 晏楽斌. “我参与处理广西文革遗留问题” (中国語). 『炎黄春秋』. 2020年6月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  14. ^ a b c d e f 林雪 (2019-10-17) (中国語). 赵紫阳 · 从革命到改良 (广东篇). 世界華語出版社. ISBN 978-1-940266-62-6. オリジナルの2021-03-19時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210319125019/https://books.google.com/books?id=__e2DwAAQBAJ&newbks=0&printsec=frontcover&pg=PA284&dq=%E6%B5%B7%E5%8D%97%E5%84%8B%E5%8E%BF%E5%A4%A7%E5%B1%A0%E6%9D%80&hl=en 2024年10月27日閲覧。 
  15. ^ a b c d 李盛平. “习仲勋在广东主持平反冤假错案” (中国語). 『炎黄春秋』. 2020年6月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  16. ^ a b [广东省历届人民代表大会历次会议大事记(1954-2008)]”. 広東人大網 (2009年2月12日). 2021年3月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  17. ^ a b 广东省人大及其常委会大事记” (中国語). 全国人民代表大会. 2021年3月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  18. ^ 1967年” (中国語). 中共広州市委党史文献研究室 (2020年5月9日). 2021年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  19. ^ a b c d e f 遅沢厚 (2010年12月20日). “不识时务亦俊杰” (中国語). 『華夏文摘』. 2020年6月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  20. ^ 葉曙明. “广州武斗的开始” (中国語). 香港中文大学. 共識網. 2021年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  21. ^ 葉曙明 (2013年10月19日). “文革中,广东省总工会武斗” (中国語). 中国数字時代. 共識網. 2021年7月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  22. ^ a b c d e f 喬晞華; James D. Wright (2019-04-24) (中国語). 文革群眾運動的 動員、分裂與滅亡 ——以社會運動學視角. 世界華語出版社. ISBN 978-1-940266-57-2. オリジナルの2021-03-19時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210319124723/https://books.google.com/books?id=xWOUDwAAQBAJ&pg=PA329&lpg=PA329&dq=%E4%B8%9C%E9%A3%8E%E6%B4%BE+%E7%BA%A2%E6%97%97%E7%89%8C&source=bl&ots=wPoJZO04DU&sig=ACfU3U1lqaEtUy5hM6N3VA8saiFc2EE4Yw&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwi-3NiX8L7pAhUFVs0KHTy7D1cQ6AEwBHoECAwQAQ#v=onepage&q=%E4%B8%9C%E9%A3%8E%E6%B4%BE%20%E7%BA%A2%E6%97%97%E7%89%8C&f=false 2024年10月27日閲覧。 
  23. ^ 葉曙明. “浴血中山纪念堂” (中国語). 香港中文大学. 『羊城晚報』. 2016年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  24. ^ a b c d e 啓之(Qi Zhi) (2019-11) (中国語). Literature and Review: Essays By Chinese Scholars on the Cultural Revolution (1). ISBN 978-1-951135-04-1. オリジナルの2021-03-19時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210319124757/https://books.google.com/books?id=tQnBDwAAQBAJ&pg=PA155&lpg=PA155&dq=%E7%BA%A2%E6%97%97%E6%B4%BE+%E4%B8%9C%E9%A3%8E%E6%B4%BE+%E4%B8%83%E4%B8%89%E5%B8%83%E5%91%8A&source=bl&ots=aN4gd-ml3D&sig=ACfU3U3KJCGCnjWEhsX3vlfoQGxgVCTCrQ&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwjuof-A3MDpAhWDHc0KHcdZB7kQ6AEwA3oECAkQAQ#v=onepage&q=%E7%BA%A2%E6%97%97%E6%B4%BE%20%E4%B8%9C%E9%A3%8E%E6%B4%BE%20%E4%B8%83%E4%B8%89%E5%B8%83%E5%91%8A&f=false 2024年10月27日閲覧。 
  25. ^ a b 侯工 (2013年7月10日). “文革之殇”. 愛思想. 2015年3月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  26. ^ a b 葉曙明. “1968年广东省革委会的成立” (中国語). 香港中文大学. 『共識網』. 2016年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  27. ^ 呉称謀(主編) (2016-05-16) (中国語). 红祸: 文革五十周年(1966-2016)论文集. 世界華語出版社. ISBN 978-1-940266-09-1. オリジナルの2021-03-19時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210319124814/https://books.google.com/books?id=RUgkDAAAQBAJ&pg=PA36&lpg=PA36&dq=%E9%BB%84%E6%B0%B8%E8%83%9C+%E6%97%97%E6%B4%BE&source=bl&ots=FXWsePggCe&sig=ACfU3U39ur9tvJnTMM5J8uDRkH0xdNV9cw&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwjb4IGQ5MDpAhUUCs0KHUoPB30Q6AEwAXoECAkQAQ#v=onepage&q=%E9%BB%84%E6%B0%B8%E8%83%9C%20%E6%97%97%E6%B4%BE&f=false 2024年10月27日閲覧。 
  28. ^ 思想編輯委員会 (2016-12-20) (中国語). 文革五十年祭(思想32). 聯経出版事業公司. ISBN 978-957-08-4847-2. オリジナルの2021-03-19時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210319124756/https://books.google.com/books?id=b8b5DQAAQBAJ&pg=PA111&lpg=PA111&dq=%E9%BB%84%E6%B0%B8%E8%83%9C+%E7%BA%A2%E6%97%97%E6%B4%BE&source=bl&ots=xy8s-Iw8r5&sig=ACfU3U2C_zglGVRbXjzUsT4tuqKhIm-ygA&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwirwOLd48DpAhXFHc0KHTSmDEIQ6AEwAnoECAkQAQ#v=onepage&q=%E9%BB%84%E6%B0%B8%E8%83%9C%20%E7%BA%A2%E6%97%97%E6%B4%BE&f=false 2024年10月27日閲覧。 
  29. ^ 清理阶级队伍” (中国語). 『羊城晚報』 (2014年3月8日). 2014年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  30. ^ 造反派的末日” (中国語). 『羊城晚報』 (2014年2月22日). 2014年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  31. ^ 阳江市阳江市历史沿革”. 行政区画網. 2020年11月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月19日閲覧。
  32. ^ 施鉄如. “一餐鹅饭的代价” (中国語). 香港中文大学. 『共識網』. 2020年6月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  33. ^ a b c 譚加洛(筆名:阿陀) (2007年1月18日). “【广州文革悬案追踪系列】之二:真相” (中国語). 『華夏知青』. 2020年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  34. ^ 梁文道 (2017年9月24日). “殺無赦” (中国語). 『蘋果日報』. 2020年3月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  35. ^ a b c d e 彭湃洗冤录:文革期间数千人屠杀彭家后人” (中国語). 鳳凰網. 『南方都市報』 (2010年10月19日). 2018年2月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  36. ^ a b 反彭湃烈士事件真相” (中国語). 搜狐. 2016年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  37. ^ a b c 黄碩忠 (2013年8月9日). “习仲勋主政广东二三事:使广东成改革开放先锋” (中国語). 環球網. 『南方日報』. 2020年6月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  38. ^ a b 関岭(原作者:蒙勇鵬) (2016年1月12日). “以暴易暴彭湃20条杀戮令延祸家族(原标题:彭湃开创的“红路”)” (中国語). 多異新聞網. 2020年6月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  39. ^ 戴煌 (2013年12月19日). “文革中彭湃烈士侄子的头颅被造反派砍下当街示众三日” (中国語). 鳳凰網. 2013年12月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  40. ^ 严惩杀害彭湃烈士亲属的凶手” (中国語). 鳳凰網]. 『快楽老人報』 (2013年1月10日). 2013年10月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  41. ^ 彭湃之子文革遭酷刑身亡” (中国語). 『僑報』 (2011年6月25日). 2020年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  42. ^ 余杰 (2018年11月1日). “從菩薩到魔王(下):中國最早的蘇維埃,變成狂熱的殺人政體” (中国語). 関鍵評論網. 2018年11月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  43. ^ 茆家升 (2019年4月21日). ““乡村自治”的终结与中国大动乱的肇始” (中国語). 『議報』. 2021年3月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  44. ^ 汕尾海丰历史大事记” (中国語). 汕尾市民網. 2020年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  45. ^ a b 王君偉 (1993年10月). “附录(3) 海南行政建置沿革”. 中国知網. 『海南名人伝略』(広東旅游出版社). 2022年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ2024年10月27日閲覧。
  46. ^ 李一哲 (2013年10月16日). “文革结束后习仲勋如何评价社会“非毛”现象?” (中国語). 鳳凰網. 『南方都市報』. 2013年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  47. ^ 历史沿革” (中国語). 琼海市人民政府. 中共琼海市委党史(地方誌)研究中心 (2020年7月31日). 2024年10月27日閲覧。
  48. ^ 向往的侨乡生活-琼海” (中国語). 中国僑網. 2020年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  49. ^ 張秀清; 澄海県地方誌編纂委員会, eds (1992). 澄海县志. 広州: 広東人民出版社. pp. 58. ISBN 7-218-00778-3 
  50. ^ 文革時期中國農村的集體殺戮” (中国語). 香港中文大学出版社. 2021年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月26日閲覧。
  51. ^ Andreas, Joel (2012-03). “Collective Killings in Rural China during the Cultural Revolution. By Yang Su. New York: Cambridge University Press, 2011. Pp. xx+300. $27.99 (paper).”. American Journal of Sociology 117 (5): 1547–1549. doi:10.1086/664061. ISSN 0002-9602. https://www.journals.uchicago.edu/doi/full/10.1086/664061. 
  52. ^ 宋永毅 (2002) (中国語). 文革大屠殺. 香港: 開放雜誌社. ISBN 978-962-7934-09-7. オリジナルの2021-07-09時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210709192424/https://books.google.com/books?id=RP1oAAAAIAAJ&newbks=0&printsec=frontcover&q=%E6%96%87%E9%9D%A9%E5%A4%A7%E5%B1%A0%E6%9D%80&hl=en 2024年10月26日閲覧。 
  53. ^ 严飞” (中国語). 清華大学. 2021年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  54. ^ 厳飛 (2016年). “政治运动中的集体暴力:“非正常死亡”再回顾(1966-1976)”. 『二十一世紀双月刊』 (155). オリジナルの2020-06-23時点におけるアーカイブ。. http://www.cuhk.edu.hk/ics/21c/media/articles/c155-201603016.pdf 2024年10月27日閲覧。. 
  55. ^ a b 楊継縄(中国語)『天地翻覆: 中国文化大革命历史』天地図書、2017年7月4日。オリジナルの2021年3月19日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20210319125150/https://books.google.com/books?id=4d4qDwAAQBAJ&pg=PT504&lpg=PT504&dq=%E5%B9%BF%E4%B8%9C%E7%9C%81+%E6%96%87%E9%9D%A9+80%E4%B8%AA%E5%8E%BF&source=bl&ots=225HYBt_aa&sig=ACfU3U2rxlP1N1NDS3fBdrkqAA2kxlgXJw&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwjun9j74r7pAhUDWs0KHbLGC4YQ6AEwA3oECAkQAQ#v=onepage&q=%E5%B9%BF%E4%B8%9C%E7%9C%81%20%E6%96%87%E9%9D%A9%2080%E4%B8%AA%E5%8E%BF&f=false2024年10月27日閲覧 
  56. ^ a b 揭秘逮捕林彪的“四大金刚”:黄永胜大叫冤枉” (中国語). 『同舟共進』 (2013年3月26日). 2020年6月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  57. ^ a b c 黄永胜的另一面 剽悍不输许世友 指挥堪比韩先楚” (中国語). 『星島環球報』 (2020年3月30日). 2020年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。
  58. ^ Qiu Jin (1999). The Culture of Power: The Lin Biao Incident in the Cultural Revolution. Stanford University Press. ISBN 0-8047-3529-8. オリジナルの2015-04-02時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150402154425/http://books.google.com.au/books?id=Kc5wutpAuHgC 2024年10月27日閲覧。 
  59. ^ 林彪同伙的下场:庭审中的黄永胜败了” (中国語). 搜狐. 『中国大审判: 公审林彪、江青十名主犯纪实』(中央文献出版社). 2020年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月27日閲覧。

関連項目

[編集]