コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

広川広四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

広川 広四郎(ひろかわ こうしろう、旧字体廣川 廣四郎1864年10月13日元治元年9月13日〉 - 1896年明治29年〉10月22日)は、明治期の日本鉄道技術者、自由民権運動家。

仙石貢らとともに東京市街高架鉄道(現在の山手線および京浜東北線上野駅浜松町駅間の高架線区間)および中央停車場(現在の東京駅)の計画、設計をおこなった。広川は計画設計作業従事中に倒れ、32歳で死去した。

経歴

[編集]

越後国三島郡飯塚村(現在の新潟県長岡市飯塚)に、広川甚左衛門とちやの次男として生まれる。[要出典]父は小さい頃に死別し、母のもとで育てられる[1]。1878年(明治11年)、長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学した[2]1882年(明治15年)3月に長岡学校を卒業し、同年築地大学校に入学する。翌年、工部大学校に入学した。1889年(明治22年)工部大学校大学院に進み、1889年(明治22年)8月から2年間九州鉄道の嘱託となる。長岡学校から大学院まで、成績は常に主席であったという。[要出典]

1892年(明治25年)7月に鉄道庁の線路取調委員となり、以後、1893年(明治26年)11月に逓信省鉄道技師[注釈 1]、1895年(明治28年)3月逓信技師を兼ね、「内ニ在テハ鉄道ニ関スル諸般ノ調査ニ従事シ外ニ出テヽハ線路ノ監査踏査、測量等ニ従事シ東奔西走虚日ナシ」と同窓会機関誌に記される鉄道技師として活動した[3]

上野駅と浜松町駅間の高架鉄道計画

[編集]

1876年(明治9年)、イギリスの鉄道技師リチャード・ボイルが東京の鉄道整備計画の報告書を作成したものの、上野から新橋の間は家屋が密集しており、東京の北側のターミナルである上野駅と南側のターミナルである新橋駅[注釈 2]との接続は計画が立たないままであった。

ドイツベルリンの鉄道整備計画を経験したドイツ人技術者ヘルマン・ルムシュッテルが九州鉄道の計画で来日していたことから、上野と新橋の間の東京市街地の鉄道の高架化と頭端式のターミナルをベルリンの中央駅(フランクフルト駅・現東駅)を範とした「中央停車場」計画を立案することになり、鉄道局は仙石貢を指名するが、仙石は他の計画に多忙であり、広川が概略の計画を行うこととなったという[要出典]

当初の計画は成案とはならず、その後にドイツ人鉄道技師フランツ・バルツァーが来日し、計画を立案し成案となった[4]。広川はこの途上で急病に倒れ[5]、死去した[4]

自由民権運動家として

[編集]

1878年(明治11年)6月、長岡学校に入学した広川は自由民権運動に接近し、多感な青年期を送ることになる。当時長岡学校では、教頭城泉太郎ミルの自由論やスペンサーの代議政体論を教えており、西欧の進んだ学問を間近に学ぶことができた。また1881年(明治14年)には、和同会(長岡学校内の生徒会、演説組織)で交詢社の「私擬憲法案」が討論の議題になったりした。[要出典]広四郎自身も、北越新聞の草間時福の演説会や馬場辰猪の演説会(1881年(明治14年)に新潟を遊説)に出席したり、また『愛国新誌』を精読し「日誌」に重要な箇所を書き留めたりした[1]

記念碑

[編集]

広川が死去した翌年、飯塚村を見下ろす枡形城跡に「広川学士之碑」が同級生らによって建立された[5][6]

広川学士之碑

従二位位勲一等子爵野村靖篆額 広川幸四郎誌

広川広四郎ハ元治元年九月十三日ヲ以テ飯塚村ニ生ル明治二十二年七月工学大学ヲ卒業シテ工学士ノ称号ヲ得尋テ鉄道事業ヲ研究セントシ大学院ニ入リテ其業ヲ終フ九州鉄道会社技師東京市水道技師等ニ聘セラレ又逓信技師兼逓信省鉄道技師ニ任シ正七位ニ叙セラル其間鉄道事業調査若クハ監査ニ因リ□蹟殆ド海内ニ遍シ人其勉励ニシテ且庸直節倹ナルヲ称ス明治二十九年十月二十三日病テ東京ニ没ス是ヨリ先鉄道事業視察ノ為メ欧米行ヲ命セラル益シ主トシテ東京市街高架鉄道及中央停車場設計調査ニ係レリ未ダ発スルニ及バスシテ忍□長逝セリ享年僅ニ三十三遺骨ヲ飯塚村明鏡寺ノ墓地ニ葬ル親戚故友相謀リ翌年此碑ヲ建ツト云

中静義達書 ※□は判読不明

また東京帝国大学図書館(現・東京大学総合図書館)には友人代表(総代)として中山秀三郎から広川の鉄道土木に関する蔵書が寄贈されている[7]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 鉄道庁は1892年から逓信省の外局、1893年には逓信省鉄道局となった。
  2. ^ 当時の新橋駅は後の汐留駅の場所にあり、高架化によって新たに作られた烏森の現・新橋駅とは位置が異なる。

出典

[編集]
  1. ^ a b 横山真一『新潟の青年自由民権運動』梓出版社、2005年12月。 [要ページ番号]
  2. ^ 『新潟県立長岡高等学校同窓会』旭出版、2010年、66頁。 
  3. ^ 『和同会雑誌第17号』和同会。 [要ページ番号] 本誌は旧制中学校時代以来の新潟県立長岡高校生徒会機関誌で、第17号は1897年から1899年までの間に刊行されている(参考:和同会雑誌 第11号‐20号)。
  4. ^ a b 金野拓朗「東京を象徴する煉瓦アーチ空間「新永間市街線高架橋」」(PDF)『Civil Engeneering Consultant』第286号、建設コンサルタンツ協会、2020年1月、16-19頁。  該当記述は18頁にある。
  5. ^ a b 自由民権家顕彰碑”. 越佐の自由民権運動. 横山真一. 2024年5月3日閲覧。
  6. ^ 広川広四郎の碑”. 越路ナビ(こしじなび) (2016年11月25日). 2024年5月3日閲覧。
  7. ^ 工學士廣川廣四郞君記念”. 東京大学デジタルアーカイブポータル. 2024年8月11日閲覧。