コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

広尾キネマ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
広尾不二館から転送)
広尾キネマ
Hiroo Kinema
種類 事業場
市場情報 消滅
略称 不二館、広尾東宝、銀映座
本社所在地 日本の旗 日本
150-0012
東京府南豊島郡渋谷町下渋谷元広尾(現在の東京都渋谷区広尾5-19-5)
設立 1915年
業種 サービス業
事業内容 映画の興行
主要株主 南川光作
大蔵貢
関係する人物 西川昇東
山野一郎
牧野周一
井関種雄
特記事項:略歴
1915年 広尾不二館開業
1925年 広尾キネマに改称
1942年 広尾東宝映画劇場に改称
1950年代 広尾銀映座に改称
1966年 閉館
テンプレートを表示

広尾キネマ(ひろおキネマ)は、かつて存在した日本の映画館である[1]。1915年(大正4年)に広尾不二館(ひろおふじかん、旧漢字表記廣尾不二館)として開業[2][3]、その後、表題の館名(旧漢字表記廣尾キネマ)になり[4][5]第二次世界大戦中の一時期、広尾東宝映画劇場(ひろおとうほうえいがげきじょう、旧漢字表記廣尾東寶映畫劇場)と改称[6]、戦後は広尾銀映座(ひろおぎんえいざ)として知られた[1][7][8]。1966年(昭和41年)閉館[1]

不二館時代は、山野一郎、次いで牧野周一映画説明者(活動写真弁士)として在籍し[9]、広尾キネマ時代は、マキノ・プロダクション作品を興行したこと、戦後に新東宝社長となる大蔵貢が経営したこと等で知られる[5]

沿革

[編集]
  • 1915年 - 広尾不二館として開業[1]
  • 1925年 - 広尾キネマに改称[1][4][5]
  • 1942年 - 広尾東宝映画劇場に改称[6]
  • 1950年代 - 広尾銀映座に改称[1]
  • 1966年 - 閉館[1]

データ

[編集]

北緯35度38分56.97秒 東経139度43分12.19秒 / 北緯35.6491583度 東経139.7200528度 / 35.6491583; 139.7200528

概要

[編集]
広尾キネマ、1930年代の写真

1915年(大正4年)、まだ郡部であった東京府南豊島郡渋谷町下渋谷元広尾に、映画館広尾不二館として開業する[1]。1918年(大正7年)から館主を務めた南川光作は欧米遊学経験もあって洋画を好み[2][3]、当時は、サイレント映画の時代であり、映画説明者(活動写真弁士)や楽士が在籍していたが、そのなかにのちに名人として知られる弁士・山野一郎が、他館での見習い期間を経て1920年(大正9年)から所属し、同館で映画説明の技術を磨いたとされる[3]。同年ころの主任弁士は西川昇東であった[3]。山野が新宿武蔵野館に転出した1923年(大正12年)には、のちに漫談家に転身する牧野周一が、同館で映画説明者としての初舞台を踏んでいる[9]。同年9月1日に関東大震災が起き、多くに被害が及んだが、同館は急ピッチで復興を進め、同年10月12日には開館することができ、危機を乗り越えた[1][11][12]

1925年(大正14年)3月6日付の『時事新報』に掲載された広告「大蔵直営広尾キネマ」によれば、当時映画説明者(活動写真弁士)であった大蔵貢が、目黒キネマに次いで、同館を2万円(当時)で買収、広尾キネマに改称している[1][4][5][13]。同年に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』によれば、同年当時の同館は、ブロックブッキングに組み込まれない、自由配給の洋画作品を興行した[4]。同館は同年すでに、マキノ・プロダクション配給の日本映画を上映していたらしく、のちの美術監督木村威夫は、同年9月に公開された阪東妻三郎プロダクション作品『異人娘と武士』(監督井上金太郎)を、幼少時に同館で観た記憶を語っている[14]。1927年(昭和2年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和五年版』によれば、当時の観客定員数は353名、興行系統はマキノ・プロダクション、東亜キネマ河合映画帝国キネマの各作品であり、経営は大蔵興行部(大蔵貢の個人経営、大蔵映画の前身)、支配人は横尾延義であった[5]。当時のマキノ作品では、1928年(昭和3年)9月21日に『神州天馬侠 第四篇』(監督吉野二郎)が、全国公開の一番手として同館で封切られている[15]。前述の木村威夫は、同館で同年上映された『忠魂義烈 実録忠臣蔵』(監督マキノ省三)を観ているという[14]。のちの映画監督今井正の自宅のすぐ近くに同館があり、同館で映画を学んだという|[16]

その後、第二次世界大戦が開始され、1942年(昭和17年)には戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給により、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、このころ広尾東宝映画劇場と改称し、東宝映画の経営のもと、紅系の配給系統に入った[6]。同年に発行された『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、当時の観客定員数は405名、当時の支配人は渡辺茂次であった[6]

終戦後は、正確な時期は不明であるが、1954年(昭和29年)ころまでに広尾銀映座に改称している[1][7][8][17]。同年当時の支配人は山田全吉で、経営は東日本興業(のちの東日本レジャー産業三和興行系、代表井関種雄)であった[7]。戦後はおもに剣戟映画を中心とした日本映画を上映し、1966年(昭和41年)、閉館した[1][10]。1971年(昭和46年)5月、跡地に広尾フラワーホームが建てられ(施工長谷部建設)、現在に至る。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l 広尾今昔物語、『広尾walk』2012年第4号、広尾商店街振興会、2012年10月、2013年6月25日閲覧。
  2. ^ a b 岡村(1923), p. 402.
  3. ^ a b c d 木下[1977], p.88.
  4. ^ a b c d 年鑑[1925], p.464.
  5. ^ a b c d e f g 総覧[1927], p.554.
  6. ^ a b c d e 年鑑[1942], p.10-35.
  7. ^ a b c 総覧[1954], p.9-11.
  8. ^ a b 年鑑[1959], p.939.
  9. ^ a b 名弁士歴伝マツダ映画社、2013年6月25日閲覧。
  10. ^ a b 石川[1990], p.215.
  11. ^ 権田[1974], p.231.
  12. ^ 山本[1924], p.71.
  13. ^ 上田学「駒田好洋の晩年 -セカイフイルム社の活動とその広がり-」『演劇研究 : 演劇博物館紀要』第34巻、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、2011年3月、91-101頁、CRID 1050282677478952064hdl:2065/32726ISSN 0913-039X 
  14. ^ a b 木村[1986], p.16-17.
  15. ^ 神州天馬侠 第四篇日本映画データベース、2013年6月25日閲覧。
  16. ^ 高部.今井(2002), p. 77.
  17. ^ 昭和32年の映画館 東京都 - 573館 Archived 2013年7月4日, at the Wayback Machine.、中原行夫の部屋 (原資料『キネマ旬報』)、2013年6月25日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]