年界
年界(ねんかい、boundary of a year)は、一年の区切り・境界である。すなわち、一年の始まりの時点であり、かつ一年の終わりの時点である。一日の区切り・境界については日界という。
概要
[編集]「一年の区切りをどこに置くか」という判断において、現在では太陽暦を基に新暦1月1日が年界とされているが、年界には様々な説があり、歴史的に主に節切りか月切りを基に様々な方式が用いられてきた。
節切りにおいては、先天・後天八卦論に基づき、二十四山の艮(甲領域)から陽の氣が陰の氣を上回る事象に基づいて、寅月初日の二十四節気である立春を年界とする「立春方式」が四柱推命等での年界に多く使用されている。他には冬至を起点にした「冬至方式」や、十二支が子・六十干支が甲子から始まるという法則に従って子月初日である大雪を年界とする(子を絶対的な起点とする)物理的な法則に従った「子 絶対方式」等が存在する。また年界を1度で切り替わるとは捉えず「冬至で徐々に変わり始め、立春で年が完全移行する」という説を提唱する有識者も存在する[1]。
月切りにおいては月の満ち欠けに基づく太陰暦、太陰暦の暦と季節のズレに閏月を入れる事によって調整する太陰太陽暦が存在する。
中国戦国時代に唱えられた「中国暦の年始(正月・年界)をどこに置くか」についての3種類の考え方を三正という。
立春説と「寅」が正月に制定された理由
[編集]アジアにて長く用いられてきた年界は寅月立春を起点とした立春方式であるが、周代では冬至の存在する子月を1月とし、子月初日の大雪や冬至を年界としていた時期があり、暦法上は十二支の1番目である「子」を正月に置く周正に最も正当性がある[2]。しかし国民に季節の運行を知らせることは王の大事な役目であり、冬よりも春の方が重要な季節であったため、時代に連れて段々と「春から1年が始まる」という考えになっていった[3]。
月建とは、その月の1日の夕方、北斗七星の柄が指す方位の事であり、方位の言い方は北が子・東が卯・南が午・西が酉で360度が12等分されて十二支に割り振られている[2]。星空が見える位置は太陽の年周運動(地球の公転運動)により毎日変動し、1年で1周する[2][4][5]。それに従い、月建も十二支を毎月1つずつ移動していき、月の十二支はこの月建により定められた[2][4][5]。北斗七星が使用された理由はこの星が顕著であったためである[2]。月建の「建」は「おざす」とも読み、北天に一年中見える北斗七星は時を司る重要な星座であると昔の中国では考えられており、北斗七星の「柄」に該当する部分が向いている方向によって、その季節を知ったと言われており、その柄がどちらを向いているかを「建(おざす)」と呼んだ[4][5][6][7]。
三正は太陽の歳差によるため発生する[2]。地球の自転は常に同方向を向いて回るわけではなく、コマのように首振り運動をしているため、星空と太陽の相互位置関係は72年に1度の割合(2170年に30度)でずれていく[2]。そのため夏王朝では1月に北斗七星が寅、殷王朝では丑、周王朝では子の方向を向いていたであろうと当時は考えられており、夏王朝は寅、殷王朝は丑、周王朝は子を月健とした[2]。秦王朝では顓頊暦(建亥)を採用し、漢王朝初期も顓頊暦を採用していたが[4][5]、太初元年(BC104)に武帝がこれを三正循環論(これら3つの正月制定法が王朝交代と共に循環する)としたため、漢王朝では「周正の次は夏正」という王朝交代論で夏正を採用し、寅月を正月とした建寅となった[2][8]。漢王朝以降の戦国各国は夏正を歴とし、現在に至るまで、建寅月を正月とする夏正暦が2千年間も中国暦(旧暦・農暦)で使用され続けてきたため「太陰太陽暦は立春付近に正月を置く暦」と誤解されていくことになった。また前述の通り、国民に季節の運行を知らせることは王の大事な役目であり、冬よりも春の方が重要な季節であったため、時代に連れて段々と「春から1年が始まる」という考えになっていった[3]。そのため暦法上は「太陰太陽暦の正月は寅月立春が年界」という考えに絶対的な正当性があるわけではない[9]。また寅月立春から始まるという説は「春に農作業を開始する」という農暦に基づいて伝承された考えであり、暦法上の物理性(年界の正当性)としては整合性を満たさない。
立春説の理論的な正当性
[編集]先天・後天八卦論に基づいた判断では立春を年界とする事に正当性がある[10]。
六十干支は子と同じ五行である壬を含む壬子から始まるのではなく、甲子から始まる。甲は寅と同じ木の五行であり、二十四山では立春の位置となるため、そういった事から寅や立春を年界とする事には正当性がある。
また先天・後天八卦論においては冬至時点ではまだ陰の氣が陽の氣を上回っており、先天・後天八卦論に基づいた判断では二十四山の艮(甲領域)から陽の氣が陰の氣を上回る事象に基づき、立春を年界とする事に正当性がある[10]、
子・冬至・大雪説
[編集]前述の通り、周代では冬至の存在する子月を1月とし、子月初日の大雪や冬至を年界としていた時期があり、暦法上は十二支の1番目である「子」を正月に置く周正に最も正当性がある[2]。
学術機関や多くの有識者間でも冬至説が提唱されており、東京都立大学の大野広之などは多くの古典や有識者の引用を用いた上で、冬至説の論文を記している[11][12]。また髙尾義政は『原典算命学大系』第2巻にて、年における宇宙空間の現象は北方から始まるといった冬至説を述べている[13]。『淮南子』天文訓には二十四節気について十五日を経て空の星を観察する事で冬至を始めとする二十四気の日が読み取れるとしている[14]。『和漢暦原考』(石井光致)には「冬至の日に一陽が生じて万物が生じ始める」とあり、冬至に陰が極まり、そこに新しい陽が生まれるとされている[15][16]。
天文・二十四節気・平気法では冬至を1年周期の開始としており、24時間に十二支を配当すると子の時刻はPM11:00-AM0:59となり、それを24節気に配当すると日付の切り替わるAM0:00が一年周期の切り替わる冬至の位置と重なる。現代の天文学による計算では周王朝初期に、北斗七星が冬至の頃の夕方に北を向いていたという[2]。
夏王朝以前は子月を正月とした暦が採用されていたという説もあり[17]、十二支・六十干支の法則に従い、子月初日である大雪を年界とする「子 絶対方式」にも整合性が合う。
脚注
[編集]- ^ “2023年の年間フライングスター風水チャートを読む | 風水オンラインマガジン|リリアン・トゥーのWOFSジャパン公式”. web.archive.org (2023年1月22日). 2023年1月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “なぜ1月は子月ではなく寅月なのでしょうか?”. web.archive.org (2021年11月30日). 2022年11月11日閲覧。
- ^ a b “2023年の立春はいつ?意味・由来・二十四節気の仕組みを解説!旬の食べ物も |じゃらんニュース”. web.archive.org (2022年11月28日). 2023年1月7日閲覧。
- ^ a b c d “暦Wiki | 暦計算室”. web.archive.org (2022年8月27日). 2022年11月11日閲覧。
- ^ a b c d 『中国の天文暦法』平凡社、1969年1月1日。
- ^ “旧正月はなぜ「寅の月」? | 日刊☆こよみのページ”. web.archive.org (2022年10月25日). 2022年11月11日閲覧。
- ^ 字通, 精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,普及版. “三正とは”. コトバンク. 2022年11月11日閲覧。
- ^ “夏正”. 百度百科. 2022年11月11日閲覧。
- ^ “旧正月は三番目の月? | 日刊☆こよみのページ”. web.archive.org (2014年9月18日). 2022年11月11日閲覧。
- ^ a b “~立春を起点とする理由の運勢学的考察~”. 風水師ウメヤマの風水ゼミナール|風水鑑定・四柱推命・易学を合わせた立命講座 (2009年2月6日). 2023年12月13日閲覧。
- ^ “算命学鑑定における冬至説の再考察 | 自然法算命学とは | 自然法算命学”. web.archive.org (2022年12月5日). 2023年1月7日閲覧。
- ^ “『算命学鑑定における冬至説の再考察 -歳首選定及び満漢朝三体言語資料をめぐって-』大野 広之”. web.archive.org (2022年12月6日). 2023年1月7日閲覧。
- ^ 髙尾 義政『原典算命学大系』 2巻、菜根出版、39頁。
- ^ “淮南子 : 天文訓 - 中國哲學書電子化計劃” (中国語). ctext.org. 2023年7月20日閲覧。
- ^ 石井光致撰、釋希巽校合『和漢暦原考』1830年。
- ^ “学院長からのメッセージ 2019 December | 山手学院 埼玉県の学習塾”. 山手学院 埼玉県の学習塾 (2019年12月5日). 2023年8月5日閲覧。
- ^ “夏正から周正への変換方程式 | 南方手帖・SFと日本古代史”. web.archive.org (2022年11月11日). 2022年11月11日閲覧。