平賀徳太郎
生誕 |
1871年2月24日(明治4年1月6日) 日本・広島県 |
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死没 | 1919年5月13日(48歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1891年 - 1919年 |
最終階級 | 海軍少将 |
平賀 徳太郎(ひらが とくたろう、1871年2月24日(明治4年1月6日) - 1919年(大正8年)5月13日[1])は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将 [1]。
平賀譲(海軍技術中将、東京帝国大学総長)は弟。
経歴
[編集]広島県出身。平賀百左ヱ門の息子として生まれる。弟の譲も海軍軍人として将官に進んだ(海軍技術中将)。
1891年(明治24年)7月、海軍兵学校18期を次席で卒業。1894年(明治27年)3月、海軍少尉任官[1]。日清戦争では「海門」航海士として出征した[2]。1895年(明治28年)2月、「高千穂」分隊士となり、以後、「吉野」航海士、「八島」回航委員(イギリス出張)、同分隊長、「大島」航海長、「平遠」航海長、常備艦隊参謀、佐世保鎮守府参謀などを歴任し、1900年(明治33年)9月から1903年(明治36年)7月まで東宮武官を務めた[1]。
1903年7月、「出雲」砲術長心得となり、同年9月、海軍少佐に昇進し「出雲」砲術長に就任。日露戦争に出征した[1][2]。1905年(明治38年)4月、軍令部参謀・大本営海軍参謀・参謀本部部員に転任[1]。
1908年(明治41年)12月から1912年(明治45年)5月まで、在米国大使館附武官としてワシントンD.C.に駐在。1911年(明治44年)12月、海軍大佐に進級した[1]。
帰国後、1912年(大正元年)9月、「対馬」艦長となる。その後、「浅間」艦長、「生駒」艦長、舞鶴鎮守府参謀長、第3艦隊参謀長などを歴任。1916年(大正5年)12月、海軍少将に昇進した[1]。
1917年(大正6年)5月、海軍教育本部第1部長兼第2部長に就任し、1918年(大正7年)7月、臨時教育会議委員に就任。同年11月に待命となり、1919年5月に現役で死去した。
栄典
[編集]- 位階
- 1903年(明治36年)5月20日 - 従六位[3]
- 1906年(明治39年)11月30日 - 正六位[4]
- 1911年(明治44年)12月20日 - 従五位[5]
- 1916年(大正5年)12月28日 - 正五位[6]
- 1919年(大正8年)5月13日 - 従四位[7]
- 勲章等
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第10巻、発売:第一法規出版、1995年。