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平賀広相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平賀広相
時代 戦国時代
生誕 大永8年(1528年
死没 永禄10年3月17日1567年4月26日
別名 通称:新九郎
戒名 高岳常雲
墓所 法音寺跡?(広島県東広島市河内町)
官位 蔵人大夫
主君 大内義隆毛利元就
氏族 藤姓平賀氏
父母 父:平賀興貞
兄弟 隆宗広相梨羽景行隆保
女(香川元景室)
元相元宗、長女(宇喜多直家室)、女(来島通総正室?)
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平賀 広相(ひらが ひろすけ)は、戦国時代武将安芸国人平賀氏当主で、頭崎城主。大内氏に従属していたが、後に毛利氏家臣となった。

出自

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平賀氏出羽国を出自とし、鎌倉時代安芸国に移住して土着した一族とされている。戦国時代には他の安芸国の国人領主と同様、周防大内氏の影響下にあった。しかし、出雲尼子氏が台頭し、尼子晴久が安芸に侵攻した際には、父の興貞が尼子氏に通じて、大内氏側に留まった隠居の祖父・平賀弘保、隆宗・広相兄弟らと興貞は敵味方に分かれて戦っている。

生涯

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大永8年(1528年)、安芸国人である平賀興貞の子として生まれる。

天文9年(1540年)、吉田郡山城の戦い尼子詮久(後の晴久)が敗れた後、尼子方に属していた父が隠居し、兄・隆宗家督を継いだ。しかし、尼子氏に従った平賀氏は大内義隆の不興を買っていたためか、天文18年(1549年)、隆宗が備後への出陣中に戦没すると、義隆は平賀氏の家督を広相ではなく、義隆の寵童で小早川氏出身の平賀隆保を養子として相続させた。これにより広相ら平賀一族は忍従を強いられるが、転機は3年後に訪れた。天文20年(1551年)、大寧寺の変により義隆が自刃すると、広相は祖父と共に挙兵し、毛利元就の後援を受けて隆保を滅ぼして、平賀氏の家督を奪還した。

天文22年(1553年2月10日起請文を提出して毛利氏に帰属し[1]、同日に毛利隆元小早川隆景、平賀広相の三人で同盟を結んだ[2]。以後は忠実な家臣として活動し、天文24年(1555年)の厳島の戦いの前哨戦においても陶晴賢側の使者を捕らえて、安芸国内における晴賢の暗躍を元就に注進し、元就を決断させた。同年6月に安芸国東西条において50貫の地を与えられる。

永禄9年(1566年)11月には周防国熊毛郡において365石、玖珂郡において130石の地を与えられた。また、同年に元就が病に伏せると、吉川元春と小早川隆景の両名と毛利氏への忠誠を誓う起請文を再び交わすなど、毛利氏の麾下にあれど未だ自立的な性格を維持していた。

永禄10年(1567年3月17日に死去。享年40。嫡男の元相が家督を継いだ。

脚注

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  1. ^ 『毛利家文書』第222号、天文22年2月10日付 毛利元就宛て平賀広相起請文
  2. ^ 『毛利家文書』第221号、天文22年2月10日付 毛利隆元・小早川隆景・平賀広相連署契状。

参考文献

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