平貞文
時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 貞観14年(872年)? |
死没 | 延長元年9月27日(923年10月9日) |
別名 | 定文、平中 |
官位 | 従五位上、左兵衛佐 |
主君 | 醍醐天皇 |
氏族 | 桓武平氏 |
父母 | 父:平好風 |
兄弟 | 貞文、藤原守義室、等子 |
子 | 安快、兼時、時経、信臣 |
平 貞文(たいら の さだふみ/さだふん)は、平安時代前期の貴族・歌人。名は定文とも記される。桓武平氏、右近衛中将・平好風の次男。官位は従五位上・左兵衛佐。中古三十六歌仙の一人。一般に平中(へいちゅう/へいぢゅう)と呼ばれた[1]。
経歴
[編集]清和朝の貞観16年(874年)父・好風と共に平姓を賜与され臣籍降下する。
宇多朝の寛平3年(891年)内舎人に任官したのち、右馬権少允・右兵衛少尉を経て、醍醐朝の延喜6年(906年)従五位下・外衛少将に叙任。その後は三河介・侍従を経て、延喜17年(917年)右馬助、延喜19年(919年)左兵衛佐と主に武官を務めた。延喜22年(922年)従五位上に至る。翌延長元年(923年)6月に三河権介に任ぜられるが、同年9月27日に卒去。
人物
[編集]紀貫之・壬生忠岑・凡河内躬恒といった『古今和歌集』の撰者らと交流があった。延喜5年(905年)および翌6年の『貞文家歌合』といった歌合を少なくとも3回主宰したことが知られている。会には紀貫之・壬生忠岑・在原元方・凡河内躬恒ら当代一流の家人が参加した。家集は伝わっていないが、鎌倉時代後期に編纂された『夫木和歌抄』に拠れば、その当時は自筆の『貞文家集』が存在した、と推測されている。『古今和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集に26首が入集している[2]。歌物語『平中物語』は平中を主人公としたものである。
色好みとしても有名で、後世に「在中・平中」として在原業平と並び称された。後に芥川龍之介は『好色』でこの平中を描いているほか、谷崎潤一郎も『少将滋幹の母』の中で重要な登場人物として平中を描いている。
官歴
[編集]『古今和歌集目録』による。
- 寛平3年(891年) 12月:内舎人
- 寛平5年(893年) 2月16日:右馬権少允
- 寛平9年(897年) 5月25日:右兵衛少尉
- 延喜6年(906年) 正月7日:従五位下
- 延喜10年(910年) 正月13日:三河介
- 延喜13年(913年) 正月28日:侍従
- 延喜17年(917年) 5月20日:右馬助
- 延喜19年(919年) 正月28日:左兵衛佐
- 延喜22年(922年) 正月7日:従五位上
- 延長元年(923年) 6月22日:兼三河権介。9月27日:卒去
系譜
[編集]『系図纂要』による。
- 父:平好風
- 母:不詳
- 生母不明の子女
- 男子:安快
- 男子:平兼時
- 男子:平時経
- 男子:平信臣
平中(ひらなか)氏は平中の末裔を名乗っている。