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平盛久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平盛久
『観音霊験記』「西国順礼拾六番 山城京清水寺 主馬判官盛久」(歌川豊国画)
時代 平安時代末期
生誕 不明
死没 不明
別名 主馬八郎左衛門
墓所 屋久島盛久神社?
官位 右兵衛尉
主君 平清盛
氏族 伊勢平氏
父母 父:平盛国
兄弟 盛久盛俊盛信
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平 盛久(たいら の もりひさ)は、平安時代後期の武将伊勢守平盛国の八男。兄は越中守・盛俊

略歴

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鎌倉に今も残る主馬盛久之頸坐という石碑には次のような碑文が書かれている。

盛久ハ主馬入道盛国ノ子ニシテ平家累代ノ家人ナリ、然ルニ平家滅亡ノ後京都ニ潜ミ年來ノ宿願トテ清水寺ニ參詣ノ歸途北條時政人ヲシテ召捕ヘシメ鎌倉ニ護送シ文治二年六月此地ニ於テ斬罪ニ處セラレントセシニ奇瑞アリ宥免セラレ剰ヘ頼朝其所帯安堵ノ下文ヲ給ヒシト言フ  

— 昭和十年三月 鎌倉町青年團建[1]

同所にある鎌倉同人會・謡曲史跡保存会の碑文もほぼ同じ内容である。盛久は京都清水寺に千手観音像を奉納し、千日参りの祈願をしていた。由比ヶ浜で斬首されそうになった際には刀が折れて命拾いしたという。また北条政子の夢に清水寺の高僧が現れて盛久の赦免を願ったということで、源頼朝は盛久を許し、さらに領地を与えたと伝わる[2]

角田文衞の『平家後抄〈上〉落日後の平家』にはこの事について詳細に書かれているが、一部引用すると

源平の合戦を通じて盛久は、戦に加わったけれども補注82『吾妻鏡養和元年三月十日条、特別の武勲をたてなかった[3]壇ノ浦の合戦は、平家の水軍を袋の鼠にして打撃を与えた殲滅戦ではなかったから、平家の軍兵には機敏に戦場から離脱・逃亡したものが少なくなかった[4]

壇ノ浦の後、盛久は大胆にも都に潜入し長門本平家物語(巻第二十)にこの顛末が書かれ、最後は罪科を赦され、所領の安堵を得て安らかな晩年を送ったであろうことは、察するに難くない[5]

で終わっているが、別の伝承では、壇ノ浦の戦いに敗れた後、都から南下し屋久島に向かう途中亡くなった。平盛久を祭る盛久神社が屋久島にある[6]

画像集

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脚注

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  1. ^ 主馬盛久の頚座(鎌倉史跡碑事典)
  2. ^ この千手観音像は後に寛永寺清水観音堂の本尊となる。清水観音堂について 清水観音堂
  3. ^ 平家後抄〈上〉P148
  4. ^ 平家後抄〈上〉P146~7
  5. ^ 平家後抄〈上〉P148,150
  6. ^ るるぶ屋久島P61

参考文献

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  • 角田文衞『平家後抄〈上〉落日後の平家』講談社学術文庫 2000年6月10日 原本朝日新聞社1981年4月
  • 『るるぶ屋久島 奄美 種子島’18』Jtbパブリッシング 2017年12月08日

関連項目

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外部リンク

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