カナヅカ古墳
カナヅカ古墳 | |
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墳丘 | |
別名 | 平田岩屋古墳 |
所在地 | 奈良県高市郡明日香村平田 |
位置 | 北緯34度28分6.45秒 東経135度48分12.32秒 / 北緯34.4684583度 東経135.8034222度座標: 北緯34度28分6.45秒 東経135度48分12.32秒 / 北緯34.4684583度 東経135.8034222度 |
形状 | 方墳 |
規模 | 一辺35m |
埋葬施設 | 両袖式横穴式石室 |
築造時期 | 7世紀後半 |
被葬者 | (一説)吉備姫王 |
陵墓 | 宮内庁治定(「檜隈坂合陵」の陪冢) |
地図 |
カナヅカ古墳(カナヅカこふん、平田岩屋古墳)は、奈良県高市郡明日香村平田にある古墳。形状は方墳。宮内庁により欽明天皇檜隈坂合陵の陪冢に治定されている。
概要
[編集]奈良盆地南縁、梅山古墳(欽明天皇陵)と鬼の俎・鬼の雪隠との間において、丘陵南斜面をコ字形にカットして造成された平坦面上に築造された古墳である。同一丘陵南斜面では、梅山古墳・カナヅカ古墳・鬼の俎・鬼の雪隠・野口王墓古墳(天武・持統天皇合葬陵)の4古墳が東西に並ぶ。本古墳は江戸時代には石室が開口しており、明治期には石室が破壊を受けているほか、1995年度(平成7年度)以降に範囲確認調査が実施されている[1]。
墳形は方形で、一辺約35メートルを測る[2]。墳丘は2段築成[2]。墳丘前面には東西約60メートル・南北約25メートルを測る大型のテラス面が構築される[2]。墳丘周囲には周濠が巡らされており、北側で幅11.7メートルを測る[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口した(現在は埋没)[2]。石室全長約16メートルを測る大型石室であり、石材には石英閃緑岩の巨石が使用される[2]。副葬品は詳らかでない。
このカナヅカ古墳は、古墳時代終末期の7世紀後半頃の築造と推定される[2]。被葬者は明らかでないが、梅山古墳(欽明天皇陵)との位置関係などから欽明天皇皇孫女の吉備姫王(643年死去)の真墓とする説が挙げられている(現墓は梅山古墳南西の塚に治定)[2]。
遺跡歴
[編集]- 江戸時代
- 1890年(明治23年)、三宅米吉が破壊に遭遇(喜田貞吉が記録)[2]。
- 1892年(明治25年)、宮内省(現・宮内庁)により欽明天皇檜隈坂合陵の陪冢に治定[2][1]。
- 1995-1997年度(平成7-9年度)、範囲確認調査(明日香村教育委員会、1996・1997・1998年に概報刊行)[2][1]。
- 1999年(平成11年)、明治期の破壊当時の様子を記す資料の発見[2]。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口した[2]。石室の規模は次の通り[2]。
- 石室全長:約16メートル
- 玄室:長さ約5.45メートル、幅約3.64メートル、高さ約2.7メートル
- 羨道:長さ約10メートル、幅約1.8メートル、高さ約1.8メートル
石室には石英閃緑岩の巨石の切石が使用される[2]。壁面は玄室では2段積み(奥壁3石:上段1石・下段2石、両側壁4石:上段2石・下段2石)、羨道では1-2段積み(両側壁10石)である[2]。また天井石は玄室で2石、羨道で3石から構成される[2]。
石室の形態としては岩屋山古墳(明日香村)と同様の特徴を有しており、「岩屋山式石室」と捉えられるが、岩屋山古墳よりも後出して峯塚古墳(天理市)からもやや後出する[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 西光慎治「飛鳥地域の地域史研究(1) 檜隈坂合陵・陪冢 カナヅカ古墳の覚書」『明日香村文化財調査研究紀要 創刊号 (PDF)』明日香村教育委員会、2000年。 - リンクは明日香村ホームページ。
- 岡林孝作「カナヅカ古墳」『続 日本古墳大辞典』東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 調査報告
- 「カナヅカ古墳(第1次)範囲確認調査」『明日香村遺跡調査概報 平成7年度』明日香村教育委員会、1996年。
- 「カナヅカ古墳(第2次)範囲確認調査」『明日香村遺跡調査概報 平成8年度』明日香村教育委員会、1997年。
- 「カナヅカ古墳(第3次)範囲確認調査」『明日香村遺跡調査概報 平成9年度』明日香村教育委員会、1998年。
- その他
- 森浩一「忘れられていた平田岩屋古墳」『青陵』第17号、奈良県立橿原考古学研究所、1971年。
- 藤井利章「飛鳥谷古墳集団の復原とその歴史的意義」『末永先生米寿記念献呈論文集 乾』末永先生米寿記念会、1985年。
- 亀田博「西内成郷と金塚」『季刊明日香風』第73号、飛鳥保存財団、1999年。